〈凍えねば分からない太陽の恩恵(生と死)〉

 終戦直後の焼け野原の東京では、川べりに茂る雑草を争って食べたらしく、隅田川には草木の一本の影すら無くなったと聞きます。そんな究極の飢餓状態は、現在の贅沢な日本国では想像し難い事ですが、世界では特別珍しい事では有りません。承知の様に、餓死する人間の数は一向に減る気配が無く、心は生きたいと願っているのに、食べ物が無くて餓死寸前に追い込まれるという事態は余りにも惨(むご)たらしくゾッとするほど恐ろしい話です。そんな世界情勢の中、カレーライスの中の人参が嫌いだと泣き叫ぶ我が子を見て、この子にも一度飢えを経験させなければ“食べ物”の有難味が生涯分からないのではないかと不安に感じてしまいます。現在では、そんな乱暴な躾をする親は少なくなりましたが、昔の親はそうやって育てて来たものです。今の日本では、そんな事をすれば親が殺人未遂で訴えられてしまいます。

 人間の生命は心も体も磁場で構成されており、変幻自在に形を変化させる複雑な磁場位相(心)と、単独の単磁場である生体磁場(肉体=生命球体)に別れているものの、両者は互いに物を記憶する磁場である事に変わりは無く、どちらも原則的に物を覚えて成長するものです。教えなければ(情報を与えねば)、磁場は覚える事は無く決して成長しません。心の記憶形式にはRAM記憶とROM記憶(深層記憶)が存在し、後者の場合は表面上忘却できる為に必ずしも宛てには出来ませんが、体の記憶形式は全てRAM記憶な為に、深層記憶に仕舞い込むと言った芸当は出来なく、忘却作用が無い分極めて実践的なものです。頭(心)で覚えるよりも体に覚えさせた方がより確実です。動物も人間も、頭で覚える事と、体で覚える事を分けて扱っており、子育てで一番重要なのは先ず体の感覚で力の配分や加減や程度やバランスを覚えさせる事です。

 ストーブやヤカンにアイロンに触ればどうなるのかを体感させる事は勿論、転べば痛い事や、氷や雪が冷たい事など、あるいは空腹が高じればどうなるのか、高所から落下したり、叩かれる痛みがどんなものか、一つ一つ覚えて貰う必要があります。敢えて経験させなければ、分からないのだから致し方も有りません。車に跳ねられたら、一体どの様な事態になるのか、少々残酷でもペシャンコに潰れたネコの死体を実際に見せねば、心の認識は難しいものです。凍えた経験の無い人間にぬくもりの恩恵が分からない様に、飢えた経験の無い人間には食べ物の恩恵が分かりません。豊満な物質社会で育った裕福な子供達は、ライターやマッチが無ければ火を起こす事も出来なければ、貧乏の惨めさやひもじさを理解する事も出来ず、また我慢して辛抱する事すら知りません。

 つまり、これは実際に経験したかあるいは学習したもの以外は、人間にはなかなか理解できないと言う話であって、死んだ経験の無い“生きている人間”が「生きているその価値」を認識するという事はとかく難しい話だと言わざるを得ません。精神的に追い込まれて、ちょっと苦しく感じただけで、“直ぐに死んで楽になろう”とする現代人の傾向は全く頂けない話です。この世はある意味では“生き地獄”そのものかも知れませんが、あの世から見れば、この世は喜びと希望に満ち溢れた正真正銘の天国浄土に他なりません。「光」や「匂い」や「音」を感じ取れる事は勿論、相手の存在をこの五感を通じて感じられる事自体が素晴らしい事であり、それが「生きている証」であることを認識しなければならないのです。

 生きている人間が「生きているその価値」を理解できないからと言って、「死」を一度体感して貰うという訳には行きません。生と死の境界線を跨ぐ危険な臨死体験をわざわざ経験させなくても、生き物は皆運命的に死の重圧を背負っており、死の到来を横目で見つめながら生きている様なものです。その時期の年齢に至れば、心と体の分離が進行し、客観的に「生」の重要性を認識できるものだと思われます。もし、どうしても死を体感したいのならば、それは睡眠(擬似死)中に於ける夢の中の自己を想像して貰うと遠からず当たっています。悪夢も楽夢も己の境涯次第、あの様な意識だけの茫漠とした精神世界が死後の世界だと言えます。

 死後の世界は生の世界の延長線上に存在し、その違いは肉体が無いだけの話に過ぎません。現世の様なシャープで明晰な意識は囲えないものの、生前の自己の記憶もそのままであり、自分という意識もまた自己本来の性質もちっとも変わらないものです。夢の様な朦朧とした精神世界が死後の世界ですが、主体的な事は何も起こせず、鏡の中の虚像として実像世界である「人間界」を客観的に眺め入るだけです。それは映画や芝居を鑑賞する観客の立場であって、もはや主役を演じる事は出来ません。

 物事を達観できないまま苦しみから逃れる目的で軽率に死を選択すれば、あの世でも苦しむ事になります。悪夢にうなされて苦しんだ経験は誰にでも在る筈です。ちゃんと問題を解決して、心の整理が付いてから満足して死を迎え入れるのが理想ですが、それを願っても叶わないのが普通であって、せめてこの世の“よしなし事”に対する執着を達観できる(諦められる)様な年齢まで生きることが重要かと思われます。その様な意味では、「成仏」とは平たく表現すれば“満足”に近い意味かも知れません。

 さて、現代科学の様に、心が大脳に存在し人の意識は人体で形成されるものと単純に考えてしまえば、死の概念とは「無」となり、人間が死ねば意識も消滅して一切が無に帰する事になります。それは相手を殺せば無にできると言う意味にも通じ、また自分が死ねば自己の苦しみも無に出来ると言う意味にもなります。現代人の短絡的な思考回路には、間違った科学思想の影響が色濃く見受けられるのは否定しようも有りません。もし、日本国が本来の仏教哲学で子供を育てれば、若者の集団自殺など在り得ない話だと思われます。親が手塩に掛けて育てた大事な子供なのに、自己の「生きる意味」が感じられないと理由で、いとも簡単に死を選択されるのでは堪りません。これは由々しき社会問題だと言えましょう。

 

次回に続く

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