生と死の陰陽査定

生と死の陰陽査定

 先の章で生と死はどちらが陰陽なのかという内容がありました。ここで再びその内容に触れたいと思います。“生があるから死がある“従って死の方向に陽があるのは明らかだと言えます。はじめに物が存在しなければ破壊しようがありません。つまり生が陰であり、死が陽であると言う事なのです。
生の行程とは物が成長して生産していく”生道行程(陰)“であり、物を破壊し分解していく”退道行程(陽)“とは死に向かう行程であると定義できます。一般に陰の行程とは”辛い“行程であり、反対に陽の行程とは”楽な“行程を意味しています。

 生きる行程が様々に辛く感じる現実は、それが心の成長行程であるからだと言えるのです。陰の行程とは山登りで言えば頂点を目指す、登り道の登山行程と同じなのです。そして、陽の行程とは帰り道の下山行程であり物理的には楽チンな行程と言えます。登山は頂上に到達しても無事に下山できなければ成功したとは言えません。登山の価値と意味は後半の下山行程にあることは言うまでもありません。陰とは発汗行程であり、物を創造し生産する工程であるのみならず成長しなければならない辛い行程といえます。

 生死における陰陽分類は心が肉体を持っているのか、いないのかの違いです。それは光があるかないかの明暗分類や、運動があるかないかの静動分類と同じものといえます。実在の当体が在る方が陰、無い方が陽ということなのです。植物と動物の違いは葉緑体があるかないかの違いですし、雌と雄の違いは子宮があるのかないのかの違いに過ぎなく、それが在る方が陰であり、無いほうが陽となります。なぜなら陽とは陰の器に反映して出現するものであり、陽だけでは実体を確認できないからなのです。心はその対象物である肉体に宿ってはじめて確認できるものですし、光であれば照射される反射体があってはじめてその存在を確認できます。また、運動もその対象物である運動体が存在してはじめて確認できるものですし、電気にしてもそれが作用する対象物(被電体)があってはじめて確認できるものなのです。それらの対象物が破壊されれば、光も電気も運動も心さえも形を留めなくなる訳ですから目で確認することは難しくなります。
従って、陰陽が混合して実在の当体を呈するものは全て器を備えていますので、生は陰の状態であると断定しても構わないのです。なぜなら陽が100%になれば実体を無くすからであり、実体が無いということは陽だけの存在と言えるからなのです。陽とは陰の存在があってはじめて具現するものなのです。

 ところで話は少しそれますが、自己の価値を自分で評価できないのが生物の最大の特徴です。貴方が太ってる方なのか、それとも痩せてる方なのかは他人を見てはじめてわかることなのです。もしこの世に貴方一人だけしか存在しないのであれば、自分は雄なのか雌なのか? それすらも判別できないのが普通の人間だといえます。これは生きてる人間が、生きていることの価値や意味を見出すことが難しいのと同じです。人間は死ななければ生きることの重要性を見出せない矛盾だらけの生命体です。飢えなければ食物の有難みがわかりませんし、凍えなければ太陽の有難みがわかりませんし、苦しまなければ楽しめないという悲しく虚しい性(さが)を持っているのです。そのような意味では、“生”という苦しく辛い成長行程を経て、その結果があの世で開花していくのだと考えれば、基礎行程であるこの世の試練は乗り越えていかなければならない関門と言えるのかもしれません。

 さて、ここまで生死の陰陽分類についてお話ししてきました。しかし、まだ釈然としないという方もいらっしゃるでしょう。なぜならば、生死の分類は昼夜の分類や、寒暖の分類、静動の分類などと同じもので、その本質は生命が有るのか無いのか、光が有るのか無いのか、運動が有るのか無いのかの“有無の違い”ですので、有と無のどちらが陰陽なのか見極めが困難だからです。
観念的には生=昼=暖=動が陽、また死=夜=寒=静が陰と感じられますが、後先問題を考えれば無から有が生じることはあり得ません。最初に何かがあるから無が訪れるわけですから、流転の方向は有(陰)から無(陽)へと流れていることになります。つまり、生きてること、明るいこと、暖かいこと、運動状態などはみな陰であると決定できるというわけです。

 

次回へ続く

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