人は何の為に生きる?(4)

食欲と性欲

 ソクラテスは「己の無知を知る」ことが学問の始めであると説きましたが、考えて見れば「無知」ほど恐ろしいものはこの世には存在しません。医者が薬だとして出した毒薬は、知識のない民衆の殆ど全員が飲んでしまうでしょうし、また警察が指名手配した無実の人間は、一般市民の殆ど全員が犯罪者だと思いこんでしまうでしょう。それと同様に、単なる勘違いに過ぎないのに、科学者が正しいと認定すれば、現実に存在しない反応でも、その反応が実際に起こっているものと錯覚してしまいます。中世の封建時代、領主や教会の神父が魔女だと断定すれば、男性すら知らない初心な少女でも一夜で魔女になってしまうと言う盲目の暗黒時代を、我々は経験して来ました。しかし、人類の「無知さ加減」は今も昔もそんなに変わりません。「真実」を知らないから苦悩し常に問題が生じています。人間は「無知」を返上して「明るく」ならなければならないのです。
「無知」の盲目地獄の中で、手探り状態で進むよりも、一条の「明知」が照らせば障害を避けて通れるものです。古来より、古今東西には様々な賢人達が出現し、民衆を啓蒙して来ました。頭の上の部厚い無知の蓋枷(ふたかせ)を突き破って、明るい日差しを浴びる事こそ、人間にとって最高の功徳だと言えるかも知れません。その様な意味では、一条の「明知」(生命哲理 宇宙論のこと)を、この私に与えて下さった天上の報身(ほうじん)達に対して、「明るくして頂いて有難う御座います。これで迷わずに前進する事ができます」と御礼を述べたいと思います。生命にとって「明るく」して貰う事こそ、“全ての価値に優る”ものだと断言しても構わないでしょう。

さて、陰陽論を駆使して、人間の全欲望のルーツを突き詰めて考えて行くと、たった二つの本源的な欲望に別れます。それは「食欲(陰)」と「性欲(陽)」という二大欲望の事ですが、逆説的に表現すれば、これらの二大欲望から全ての欲望が派生して誕生して来たのであり、これらは人間のあらゆる欲望の原点的な形態と言えます。「欲望」が「生きる目的」と一体どんな因果関係にあるのか、いぶかしく感じる人もいるかも知れませんが、向学欲や知識欲と言ったものまでも“欲望の一種”に過ぎない事を知れば、欲望を正しく知る事に「生命の普遍命題」を解く鍵が存在する事は推察できると思います。心が発達する以前の生命段階では欲望が生きる為の原動力となります。
 生命とは早い話が「磁場」の意味ですから、物理的に考察すれば、内向きの要求作用(陰)と外向きの要求作用(陽)に大別する事が出来ます。つまりベクトルの作用方向が自分(内)に向いているのか(向心系列欲望)、それとも相手(外)に向いているのか(遠心系列欲望)と言う話です。その明確な陰陽区分をちゃんと付けられなければ、物事の正しい分類など出来る筈も有りませんし、経験による人智だけで分類に挑めば、100人が100人必ずどこかで判断を誤り間違って分類してしまいます。
「食欲」に象徴される陰系列の欲望の特徴は、磁場のエネルギー本能として最初からもともと備わっているものであり、気の粒(食料)や情報(知識)を獲得するという本能的な傾向のものは皆、この陰系列の欲望の範疇に属します。人間は気の粒を捕獲しませんが、その代わりに食料や知識やお金や物品を欲しがり集めます。従って、食欲・知識欲・金銭欲・所有欲と言った欲望は陰系列の代表的な欲望種となります。これらの欲望の特徴は、それ自体に相手をどうこうしようする悪意作用は無く、ただ自分の為に「欲しがる」というだけのものです。無論、度が過ぎれば結果的に周囲に迷惑を及ぼす事になりますが、陰系列の欲望種は余り罪深く無いのが特色です。
それに対して、性欲に象徴される陽系列の特徴は、本能として最初から備わっているものではなく、後から生じて来る遠心系(外部作用系)の欲望種であり、必ず外部に矛先となる対象物もしくは対象者が必要となる欲望です。これは良くても悪くても相手に作用を及ぼす為に、周囲にとっては最も害悪な欲望となり得るものです。大量の派生種が存在しますが、成長の順番に代表格を列挙すれば、情欲・我欲・異性欲・虚勢欲・見栄欲・虚栄欲・財産欲・支配欲・権力欲・見識欲・名声欲・応仰欲などが上げられます。如何にも人間(沙中の生命)らしい欲望だと言わざるを得ません。

 成長期の人間が性的な衝動を覚えて、異性を欲しいと純粋に感じる事は、陰の本能的な要求であり、それはお金や車を欲しがる事と何も変わらないものです。それ自体に悪意があるとは思われません。しかし、意中の相手を獲得独占したいが為に、格好を気取り体裁を囲って自己をアピールしたり、競争相手に嫉(ねた)んでそれを排除する様な行為を及ぶと、もはやこれは陽の異性欲(独占欲)の範疇、大人の汚い欲望に変じています。それが良いか悪いかは別問題として、自己の思惑の為に相手や周囲に影響を及ぼす故に、陽の欲望に変じていると解釈できます。
ゆっくりと眠りたいと言う睡眠欲は、別に人間でなくても生物ならば皆同じです。クジラは大洋の真ん中で腹を出して眠りますが、その行為を見て身勝手だとは誰も思いません。縁側で昼寝をしていたお爺ちゃんが孫に腹を立てている理由は、勿論睡眠を妨害されて眠れなかったからですが、夜も寝て昼も眠ると言う行為は些か自己本位、騒いでいる孫の方が罪深いとは思われません。睡眠を妨害されて怒ったお爺ちゃんの行為は我欲(自分の思い通りにしたい欲求)に基づくものであり、その欲望(我欲)は我侭な子供の欲望と大差が無いかも知れません。
美しい女性とすれ違って、「こんな綺麗な女性と付き合えたらなあー」と思うのは、厳格に言えば「所有欲」を感じた事になりますが、それが罪であるとは誰も思いません。しかし、彼女と再び出逢いたいばかりに、尾行をしてその住所を確認すると言った行為に及んだ場合は、ストーカーの前兆行為であり、明らかに陽の欲望(占有欲)に基づいており、法的な規制に引っ掛かります。前者は店頭の果物や新車を見て、「この林檎が食べたいなあー」と食欲を感じる事や、「こんな高級な車に乗りたいなあー」と憧れを感じる事と何も変わらないものであり、それは大統領を見て、「俺もあんな偉い人物に成りたいなあー」と思う事と一緒です。
この様に、陰系列の欲望は欲望の一種であっても、他を巻き込む性質を持たない自然な内なる欲求であり、それは後から生じる陽系列の欲望の第一動機にはなれども、その欲求自体は責めることの出来ないものです。お金を使えば直ぐ無くなってしまうので、なるべく使わずに溜めていると言う「貯蓄欲」が法律の枠枷に引っ掛かるとは思えませんし、また俺は頭が悪く物を覚えられないので、この年齢でもまだ学校に通って勉強していると言う「学習意欲」が罪深い訳では有りません。無論、「貯蓄欲」が高じて「吝嗇(りんしょく)」に陥ってみたり、「学習欲」が高じて「見識」を見せびらかす様になれば、それは陽の欲望の芽生えであって、段々と罪深さを増して行く事になります。上流の透明な水が徐々に汚染されて行く様に、成長に伴って欲望も徐々に変化して陽化して行くものです。

 重要な認識は、この世の万物万象を分析する際には、物事の流転潮流を頭に入れて解析するという事です。例えば、地震という自然現象を分析するのに、地球を静止状態にして解析を進めても本当の事は何も分かりません。地球は回転運動を起しながら日々膨張を続けており、その地球の運動を念頭に置かなければ、地震を誘発する根本原因をまさぐる事は出来ません。それは欲望の分類分析だって同じであって、生命成長を考慮して、欲望の元初の発生原因とその段階的な派生を念頭に入れなければ、正確な分類作業など出来ない相談です。生まれたばかりの赤ん坊が、性欲を感じたり、権力欲や財産欲を求めたりはしないものです。
その理屈は、「生きる目的」にしても一緒の話です。それは年齢の違いや生命機根(分明度)の違いによって段階的に異なるものであり、心が未発達な赤ちゃんに「生き甲斐」や「人生の目的」と言った問題はどうでも良い話です。その様な高尚な悩みは、心の成長に伴って徐々に生じて来る問題であって、人生の目的など年齢によってコロコロ変わって当たり前だと言えましょう。しかし、万象が流転し変化して行く流動状態の中でも、死に至る直前の最終段階に於いて、結局「人は何の為に生きるのか」が問われます。貴方は一体何の為に、この宇宙に誕生して来たのでしょうか?

 

次回に続く

 

人は何の為に生きる?(3)

凍えねば分からない太陽の恩恵(生と死)

 終戦直後の焼け野原の東京では、川べりに茂る雑草を争って食べたらしく、隅田川には草木の一本の影すら無くなったと聞きます。そんな究極の飢餓状態は、現在の贅沢な日本国では想像し難い事ですが、世界では特別珍しい事では有りません。承知の様に、餓死する人間の数は一向に減る気配が無く、心は生きたいと願っているのに、食べ物が無くて餓死寸前に追い込まれるという事態は余りにも惨(むご)たらしくゾッとするほど恐ろしい話です。そんな世界情勢の中、カレーライスの中の人参が嫌いだと泣き叫ぶ我が子を見て、この子にも一度飢えを経験させなければ“食べ物”の有難味が生涯分からないのではないかと不安に感じてしまいます。現在では、そんな乱暴な躾をする親は少なくなりましたが、昔の親はそうやって育てて来たものです。今の日本では、そんな事をすれば親が殺人未遂で訴えられてしまいます。
 人間の生命は心も体も磁場で構成されており、変幻自在に形を変化させる複雑な磁場位相(心)と、単独の単磁場である生体磁場(肉体=生命球体)に別れているものの、両者は互いに物を記憶する磁場である事に変わりは無く、どちらも原則的に物を覚えて成長するものです。教えなければ(情報を与えねば)、磁場は覚える事は無く決して成長しません。心の記憶形式にはRAM記憶とROM記憶(深層記憶)が存在し、後者の場合は表面上忘却できる為に必ずしも宛てには出来ませんが、体の記憶形式は全てRAM記憶な為に、深層記憶に仕舞い込むと言った芸当は出来なく、忘却作用が無い分極めて実践的なものです。頭(心)で覚えるよりも体に覚えさせた方がより確実です。動物も人間も、頭で覚える事と、体で覚える事を分けて扱っており、子育てで一番重要なのは先ず体の感覚で力の配分や加減や程度やバランスを覚えさせる事です。
 ストーブやヤカンにアイロンに触ればどうなるのかを体感させる事は勿論、転べば痛い事や、氷や雪が冷たい事など、あるいは空腹が高じればどうなるのか、高所から落下したり、叩かれる痛みがどんなものか、一つ一つ覚えて貰う必要があります。敢えて経験させなければ、分からないのだから致し方も有りません。車に跳ねられたら、一体どの様な事態になるのか、少々残酷でもペシャンコに潰れたネコの死体を実際に見せねば、心の認識は難しいものです。凍えた経験の無い人間にぬくもりの恩恵が分からない様に、飢えた経験の無い人間には食べ物の恩恵が分かりません。豊満な物質社会で育った裕福な子供達は、ライターやマッチが無ければ火を起こす事も出来なければ、貧乏の惨めさやひもじさを理解する事も出来ず、また我慢して辛抱する事すら知りません。
 つまり、これは実際に経験したかあるいは学習したもの以外は、人間にはなかなか理解できないと言う話であって、死んだ経験の無い“生きている人間”が「生きているその価値」を認識するという事はとかく難しい話だと言わざるを得ません。精神的に追い込まれて、ちょっと苦しく感じただけで、“直ぐに死んで楽になろう”とする現代人の傾向は全く頂けない話です。この世はある意味では“生き地獄”そのものかも知れませんが、あの世から見れば、この世は喜びと希望に満ち溢れた正真正銘の天国浄土に他なりません。「光」や「匂い」や「音」を感じ取れる事は勿論、相手の存在をこの五感を通じて感じられる事自体が素晴らしい事であり、それが「生きている証」であることを認識しなければならないのです。

 生きている人間が「生きているその価値」を理解できないからと言って、「死」を一度体感して貰うという訳には行きません。生と死の境界線を跨ぐ危険な臨死体験をわざわざ経験させなくても、生き物は皆運命的に死の重圧を背負っており、死の到来を横目で見つめながら生きている様なものです。その時期の年齢に至れば、心と体の分離が進行し、客観的に「生」の重要性を認識できるものだと思われます。もし、どうしても死を体感したいのならば、それは睡眠(擬似死)中に於ける夢の中の自己を想像して貰うと遠からず当たっています。悪夢も楽夢も己の境涯次第、あの様な意識だけの茫漠とした精神世界が死後の世界だと言えます。
死後の世界は生の世界の延長線上に存在し、その違いは肉体が無いだけの話に過ぎません。現世の様なシャープで明晰な意識は囲えないものの、生前の自己の記憶もそのままであり、自分という意識もまた自己本来の性質もちっとも変わらないものです。夢の様な朦朧とした精神世界が死後の世界ですが、主体的な事は何も起こせず、鏡の中の虚像として実像世界である「人間界」を客観的に眺め入るだけです。それは映画や芝居を鑑賞する観客の立場であって、もはや主役を演じる事は出来ません。
物事を達観できないまま苦しみから逃れる目的で軽率に死を選択すれば、あの世でも苦しむ事になります。悪夢にうなされて苦しんだ経験は誰にでも在る筈です。ちゃんと問題を解決して、心の整理が付いてから満足して死を迎え入れるのが理想ですが、それを願っても叶わないのが普通であって、せめてこの世の“よしなし事”に対する執着を達観できる(諦められる)様な年齢まで生きることが重要かと思われます。その様な意味では、「成仏」とは平たく表現すれば“満足”に近い意味かも知れません。
さて、現代科学の様に、心が大脳に存在し人の意識は人体で形成されるものと単純に考えてしまえば、死の概念とは「無」となり、人間が死ねば意識も消滅して一切が無に帰する事になります。それは相手を殺せば無にできると言う意味にも通じ、また自分が死ねば自己の苦しみも無に出来ると言う意味にもなります。現代人の短絡的な思考回路には、間違った科学思想の影響が色濃く見受けられるのは否定しようも有りません。もし、日本国が本来の仏教哲学で子供を育てれば、若者の集団自殺など在り得ない話だと思われます。親が手塩に掛けて育てた大事な子供なのに、自己の「生きる意味」が感じられないと理由で、いとも簡単に死を選択されるのでは堪りません。これは由々しき社会問題だと言えましょう。

 

次回に続く

 

人は何の為に生きる?(2)

 

 「幸せになりたい」のは別に人間でなくても生物ならば皆同じです。「幸せ」という結果を到来させる為には、一体どの様な原因を造れば良いのか、それを具現化する為の現実的な労力が必要となります。もし、貴方が「未来の宇宙社会」の到来を夢見ているなら、それを現実化させる為には、一体どの様な原因を造れば良いのか、その未来に対する具体的なプランが必要なことは勿論、それを実際に実行しなければ、未来という結果は生じて来ないのです。
耳が痛くなる様な超現実的な話ですが、とかく精神が高揚した陽化社会は土台基盤(陰の原因作用)をなおざりにして、「夢や希望」(陽の結果)だけを先行させてしまいがちです。畑に種を蒔かずして如何なる収穫も有り得ないことは承知の通りです。結婚や新規ビジネスの十中八九が失敗に終わる原因はたった一つ、物(家庭や会社や子供など)を産み出しそれを維持(成長)させて行く為には、陰の「発汗的な労力」が必要なことを認識していないのがその理由です。勿論、陰の所業とは陽の芽生えを誘発して、それを育てる為の行為であって、通常親が子を育てる行為の事です。

この生命哲理 宇宙論という未来の種子を畑(民衆)に下種(げしゅ)する作業こそ、陽の芽吹き(信者)を誘発する「原因を造る行為」と言えます。その下向きの作業を無くして生命哲理 宇宙論(未来)が開花する事は有り得ません。単なる認識論に過ぎない生命哲理 宇宙論は上空の磁場位相(心)と同じもの、それは個々の肉体(地球人)と合体して始めて生きた機能を発揮するものです。我々にとって地球人(新しい仲間)は我々の子供に各当します。それを大事に育てる事が我々の使命です。我々親の立場の人間が互いに愛情(合い情)を分かち合う事が出来なければ、地球人もまともに育たちません。地球人が育たないと言う事は、生命哲理 宇宙論が開花しない、つまり地球に未来は訪れないと言う深刻な問題となります。
今の我々は「あんたの稼ぎ悪いから生活に困るのよ」となじり合っている夫婦と一緒、経済的な問題で本質の業務(子育て)にひびは入れたくありませんが、この陰の土壌基盤を確固たるものにしなければ、現実問題として心の余裕が失われ、夫婦の愛情を育てる事もまた子供を育てる事すら難しくなります。既に家庭(組織)は造られ子供も誕生しています。生活費が無いから貴方は家庭を放棄するのでしょうか?

 一人の人間が生きる為には、食料や空気が必要なことは勿論、睡眠や栄養や社会知識も必要であり、特に子供は親ばかりではなく誰かに導かれ手を掛けて貰わなければ一人前に成長する事は出来ません。生物が「世代交代」によって、その肉体を世襲的に存続保持して行くことに重要な意義を見出せない人間は、「人は子供を育てる為に生存している訳では無い」と考えているのかも知れません。だが、人類全員がそう考えてしまえば、僅か100年で人類は本当に滅亡してしまいます。45億年もの進化の末に、宇宙がやっと創造し得た精巧な芸術作品(肉体)を個人の存在意義の為に水泡に帰さしめる事は出来ない相談です。人生80年という束の間の時間内で、一人の人間が生み出せる物などたかが知れており、世代交代によって文化も科学も進化していると言えましょう。
 人類全体を考えれば、社会の常道に習って自己の義務を真っ当すれば、それなりの成長を得てそれなりの価値や生き甲斐を見出せるものですが、個々の人間を中心に考えれば、確かに培養菌でもあるまいし、何が悲しくてコロニー集団に従属してアクセク生きねばならないのか、と自問自答する意味も分かります。「生きる目的」や「存在価値」を見出せずに、「死」を選択する若者が急増している社会現象は承知の通りです。無論、自殺するのは若者だけとは限りません。この世は余りに悲惨で過酷な“地獄社会”、その奈落の底に突き落とされれば、夢や希望を失った人間には、もはや前進する意欲も無ければ、また生きる気力すらも持てないものです。
もし貴方が“自殺する者は心が弱いからだ”と鼻先で受け流しているならば、それは今貴方の人生がたまたま旨く展開しているだけの話に過ぎません。心の境涯が磐石な人間など存在せず、とかく覚悟の用意が薄い人間ほど困難に直面すればいとも簡単に自殺に追い込まれてしまうものです。むしろ明日は我が身かと、人の不幸を深刻に聞き入る人間の方が本当は強い精神境涯を持っているのかも知れません。夢も希望も見出せないドン詰まりの地球文明、遥か以前に原始生物を卒業した我々人間は、鋭利に研磨されたシャープな鋼鉄剣、緑青に錆(サビ)付いた柔らかい青銅剣とは異なり、非常にもろくて弱いものです。現代人はパンだけでは決して生きられず、生き甲斐を失い、助力者(親や伴侶や友達)を失って、絶望の淵に瀕すれば、もはや我々は誰であっても一年たりとも持たないのが普通だと言えましょう。
 「生きる気力」を失って人間が自殺を冒すぐらいだから、当然人間は「食べる為に生きている」訳では有りません。つまり、パンを食べる為に生まれて来た訳では無いのです。本質的な話をすれば、我々は「生きる為に」、手段として「食べている」に過ぎず、「生きる目的」の為に食して肉体の命を保持しているだけの話に過ぎません。それは「生きる気力」を失えば「食欲」さえも無くしてしまう現実を考えれば、心が本当に死を望めば、肉体も結局それに追従せざるを得ないと言う話です。では、心サイドの問題である「生きる目的」とは一体何でしょうか? またその目的を見出すことが難しい問題であれば、では現代人に「生きる意欲」を昂じせしめる心の要因とは一体何でしょうか? ここではその様な本源的な心の問題に付いて考察して見たいと思います。

 

次回に続く

 

人は何の為に生きる?(1)

宇宙の普遍命題

「人は一体何の為に生きるのか?」という本源的な課題は、我々地球人ばかりの問題では無く、宇宙の高等生命体ならば皆共通して頭を抱える超難題だと思われます。精神機根が未熟な(精神階ソフトを使用できない)原始生物ならばともかく、この問題は心の広域ソフト帯を使用できる(自力判断が可能な)高等生物ならば、いつか必ず直面する所の避けて通れない宇宙の普遍命題と言えましょう。
 与えられた寿命内で、自己の欲望を満たすだけの用事で人間が生きられるのであれば、そんな楽チンな話は有りません。しかし、高等生命体の多くは自己の存在意味や存在意義という哲理的な価値を追い求め、精神的な充足を必ず得ようとするものです。バイ菌の様に何も考えず、本能のままただ無心に生きる事を選ばず、相手や社会や世界といった対象物を意識して、より高尚で高次な価値を求めます。
 100年前の地球ならば、その様な難問を考えるのは哲学者や宗教家の仕事であり、“難しい事を考えずに命が在る事に感謝して黙って生きれ”それで済みましたが、文明レベルが上がった今日では、もはやそんな誤魔化しは通用しません。作業ロボットや奴隷の如き主体性の無い従属的な生き方は過去の時代の話であって、個人意識が高揚した現代人ならば誰でも、一生に一度はその難問に突き当たって「生きる目的」や「人生の意味」に付いて苦悩し、答えが見出せない超難題に頭を悩ますのが普通です。

 一匹の働き蜂(はたらきばち)が突然進化して、人間の様に心の広域ソフト帯の方で物を考えられる様になったと仮定して見ましょう。心の目を開いて明るくなった蜜蜂が最初に感じる苦痛は、「俺は一体何が悲しくて毎日毎日、あくせく花の蜜を集めなければならないのか」という疑問です。お腹がすいた時にだけ蜜を吸って、自由に大空を飛び回りたいと言う願いは生物ならば皆一緒、だが個の都合を優先させれば蜜蜂社会は崩れてしまいます。そもそもこの自然界は、集団から離れた単独蜜蜂が寿命を全うできる様な甘い世界ではありません。たった一匹では一夜すら無事に過ごせないと言う過酷な現実が、集団に結束力を促し群れの規律を遵守させています。
 その昔、一生物種に過ぎない人間の祖先も「野生の脅威」から身を守る為に集団社会を築いて来ました。特に力の無い子供や女性が領地から離れて一人歩きをする事など言語道断の行為、自分勝手な行動は猛獣の餌食となるか、迷って餓死するか、あるいは他部族に拉致されて晒し者になるだけの話です。たった一人の女性捕虜を取り返すのに部族間戦争を起し兼ねません。社会に迷惑を与えず賢く生きる為には必然的に社会の掟に従わなければならない必要が有ったと言えましょう。
しかし考えて見れば、「自然界の脅威」は今も昔もそんなに変わってはいません。野生から遠く隔離された人間社会の内部と言っても、その構造は自然界の営みと同じ、弱い立場の人間や間抜けた人間をおとしめる罠(わな)は、社会のそこら中に張りめぐらされているのが現状です。今では最も安全だった家庭ですら安心できる場所とは成っていません。特に子供やペットはいつ家庭が崩壊して、親に捨てられるかビクビクして過ごさなければならないと言うのは、悲しむべき事態と言えます。

さて、女王蜂が出産を拒否して、働き蜂が労働を拒否すれば、蜜蜂社会はたった一夏で滅んでしまいます。外敵のスズメ蜂に攻撃されて巣が全滅するならともかく、内部崩壊を起して自滅するのは頂けない話です。それと同様に母親が子育てを拒否して、父親が仕事を拒否すれば、家庭は瞬く間に自己崩壊を起してしまいます。不慮の災難で破壊されるならともかく、親の勝手で家庭崩壊を誘発させるのは如何なものかと思われます。そもそも男女の恋愛と結婚生活(営巣)は全く別種なもの、先に巣を造らないと結婚出来ないのが“生物界の掟”です。
つまり、夫婦愛(陽)が家庭の土台基盤をなすものでは無く、生活の営み(陰)が最優先事項であり、本命の夫婦愛とは後から生じて来るものだと言う話です。男女の恋愛感情を基盤にして結婚生活を始める行為は、土台を築かずに家を建てる行為と一緒、陰陽の順序を踏み間違えています。一つ屋根の下で生活して行く内に、単なる恋愛感情が徐々に実って夫婦愛という完熟した姿に成長して行くものです。家庭を築く行為と、会社を築く行為は皆一緒、重要な事は先ず経済基盤を固める事が先決であり、その意味や意義というものは必ず後から生じて来るものなのです。
物事の本枠を抜粋して総括を下せば、確かに夫婦の一生とは男女の愛の成長物語と言えます。しかし、上辺の形質とは言え事実上は男女の生活物語であって、死が二人を分かつその段階に至ってやっと夫婦愛が完成するのですから、比率から言えばどちらにウエイトがあるかハッキリしています。特に新婚当初は八割方“陰の比率”が支配する為に、それは純然たる生活物語に過ぎません。「二人の愛は一体どこに消えたの」と叫んでも、愛は最初から存在するものでは無く、今芽吹いたばかりなのです。とかく若い人間は恋愛(欲望の一種)と愛を勘違いしていると言えます。
しかし、ウエイトは大きいとは言え、生活物語が夫婦の本質ではありません。なにが重要かと言えば、やはり未熟なヨチヨチ姿でも夫婦愛こそ夫婦の全てです。愛とは“合い”の意味であって、互いに認め合い、補い合い、譲り合い、庇い合って、心の一体性を深めて行く事です。その合い情を育てなければ、破風が吹き荒ぶ諸魔多きこの世では、長年に渡って夫婦の形態を維持する事は不可能な話です。夫婦関係が単なる生活物語で終わるならば、こんな不幸せな事は有りません。
生活物語をそっち退けにして、愛情物語を優先させれば、皮肉なことにその夫婦の命は短くものの見事に頓挫する運命が待ち受けています。結婚生活を壊さずに長く続けたいならば、生活物語を優先させる方が簡単です。別に愛情は無くても共同生活は続けられるものであり、陰とは本来そういう形態のものです。長年連れ添っても、その様な心が感じられない抜け殻(がら)だけの「空蝉(うつせみ)夫婦」に意味が在るとは思われませんが、少なくても激しく陽化した「破滅夫婦」よりも、家庭破壊を起さないと言う理由から言えば“罪が薄い”と言わざるを得ません。
これから結婚する貴方に言いたい事は、家庭とは築くものであって、物を造り上げると言う並々ならない下向きの「陰の姿勢」で望まないと、ほんの一瞬で壊れてしまうと言う事です。そしてもっと重要な事は、「陽の芽生え」を確認したら、その絆を大事に育てて行くと言う事です。夫婦の愛情物語とその子供(絆)の成長物語は基本的に一緒、まるで鏡に反映した虚像の様に、夫婦の愛情が冷えれば子供と親の関係も冷えてしまいます。子供を健全に育てたいなら、夫婦愛を健全に育てるのが一番の早道、子供がおかしくなったら自分達の姿を鏡に投影して軌道修正する事です。

 

次回に続く

 

生命輪廻の陽化運動(2)   

 さて、繰り返しになりますが輪廻運動は前進運動であり、ただ回転を繰り返すだけではありません。高気圧や低気圧の大気渦が回転すれば、下降流や上昇流という大気の直進運動を生み出します。また、電子が公転すれば中心磁束という直進流を生み出し、電子スピンは電子の中心磁束(電流)を生み出します。

 

 

 もちろん、生命輪廻はこれらの物とは異なりますが、先にお話した様に心を進化させる直進運動を行なっており、その進化には逆流は決してありません。
 ここでの話は死後の世界を信じろという意味ではありませんし、またはかない肉体を備えている人間期間が虚しいという意味でもありません。死んでから進化するのは当然の話であり、宇宙の高み(精神の上層階)に死んでから到達するのなら、誰にでもできる芸当という話なのです。重要なのは“生きたまま”進化することが重要なのです。仏法では死んで上界へ達することを“死成仏”、生きたまま上界へ達することを“即身成仏”と称していますが、原則的には死んだ人間の自力成長は難しいのです。一方で肉体と一致した明晰な意識を奏でる人間の精神成長は早く、人によっては一瞬にして最高峰の上界に到達できる人もいます。

 本書でお話しているこの陰陽哲理も、そこに住む意識体が書かせたものをわかりやすく表現し直したものなのです。しかし、その磁界(星団磁界)ですら最高峰の磁界ではありません。まだ上が存在しているのであり、そこは創造主の意識世界と言えます。その場へ生きたまま同会するのが人間に課せられた当面の使命なのです。そして、その磁界や場すらも越えていくことが究極の人間の使命に他なりません。それは貴方自身が成すかもしれませんし、後世の子孫たちが成すのかもしれませんが、いずれにしても尊い肉体を存続させることも最重要課題であり、世代交代を続けてこの肉体を子孫に伝えていく意味がそこに存在するのです。

 人間(宇宙人)とは桜の花びらに過ぎず、その花を開花させているのが宇宙であり、桜本体である“桜の木”なのです。仮に桜の花が60億個の花びらを開花させたところで、それらは桜の木の一部に過ぎず、元々独立した存在ではありません。桜の花びら(人間)は桜本体(宇宙)を象徴するものですが、結局それらは桜の木の一部に過ぎず、全体的なものではなく部分的なものなのです。個の意識に捕らわれて、一人の人間意識から卒業できない人は永久に花びらをやり続ける事になりますが、考え方一つで人間は地球にもなり、宇宙全体にもなって我が桜であるという全体意識も囲えるのです。創造主(神=全体宇宙)が人間に望んでいることは、我(神)に従って生きるのではなく、我(神)の意識に人間が成長することであり、人間が我と同化しうる日をただひたすら待っているのです。悲しいことに、小さな肉体に呪縛された哀れな人間は自分が地球であることも、そして宇宙自身であることも気が付かずに、無意義な人の一生を送ってしまうのです。

 さて、この宇宙で唯一無二の存在である原始宇宙(創造主)は、前宇宙の遺伝記憶である“宇宙を創造して生命を生産する記憶”を持つものの、自己を客観的に判断し得る“外磁場(心)”を持たない内磁場だけの極めて原始的な意識体です。それは人間の様な賢い生命体とは言えず、尊いものであっても、その知能は白痴的な生命状態と言えます。彼(創造主)は自分がどこの何者なのか、まるで何も分からないのです。そこで宇宙は記憶に従って人間を造り、そこに自己の意識を投影して、肉体を通じてあらゆる情報を集めて自己の成長を促がしているのです。つまり、人間とは神の意識を奏でる生命体であり、神(人間)が“我とは何ぞや”を理解するその日まで、日々の成長を義務付けられた生命体なのです。
 そんな創造主を具人化して万能なる神のイメージを抱き、人間とは別種な存在物として扱っているのは知能遅れの地球人ぐらいのものです。人間が想像するような神など宇宙には存在しないのであり、救いを待っても無駄だと言えます。神の意識は現存するものではなく、これから人間が創造するものに他なりません。神を信奉する西欧人にとっては、これは神を冒涜する考え方かもしれませんが、特定の神など崇めない東洋人にとって、万能神の存在は無く、誰も神など宛てにしておらず救済など待っていません。それは宗教が生み出した弊害であり、神など居ないことを認識しなければならないでしょう。

 生命輪廻が生み出す心の“縦の進化”の行き着く先には、大宇宙の当体意識を奏でるという人間に課せられた最高の使命が存在します。その究極的な目的の為に人類が存続し、世代交代を続けて成長を続けていることは認識しておかなければならないでしょう。
 重要な事は、物事が陽化流転して本来あるべき姿(回帰原点)に向かって動いているという事であり、ミクロの範囲でもマクロの範囲でも陽化運動が起こっているという事実です。宇宙と言えども、自然の摂理に従って運動を起こしており、人間と同様に成長があり、死を迎えて、輪廻を繰り返しています。その絶対法則は神が創作したものではなく、神(宇宙)も従わなければならない自然の掟であり、それは単に最も初歩的な物理法則に過ぎないのです。その物理法則を認識するのに、神の知恵は要らないのであり、それは人智で充分理解し得るものなのです。絶対に超えられない神の壁を作り出せば、宇宙は謎解きの出来ない孤高の存在となり、その民は盲目地獄から永久に逸脱できません。