人は何の為に生きる?(1)

宇宙の普遍命題

「人は一体何の為に生きるのか?」という本源的な課題は、我々地球人ばかりの問題では無く、宇宙の高等生命体ならば皆共通して頭を抱える超難題だと思われます。精神機根が未熟な(精神階ソフトを使用できない)原始生物ならばともかく、この問題は心の広域ソフト帯を使用できる(自力判断が可能な)高等生物ならば、いつか必ず直面する所の避けて通れない宇宙の普遍命題と言えましょう。
 与えられた寿命内で、自己の欲望を満たすだけの用事で人間が生きられるのであれば、そんな楽チンな話は有りません。しかし、高等生命体の多くは自己の存在意味や存在意義という哲理的な価値を追い求め、精神的な充足を必ず得ようとするものです。バイ菌の様に何も考えず、本能のままただ無心に生きる事を選ばず、相手や社会や世界といった対象物を意識して、より高尚で高次な価値を求めます。
 100年前の地球ならば、その様な難問を考えるのは哲学者や宗教家の仕事であり、“難しい事を考えずに命が在る事に感謝して黙って生きれ”それで済みましたが、文明レベルが上がった今日では、もはやそんな誤魔化しは通用しません。作業ロボットや奴隷の如き主体性の無い従属的な生き方は過去の時代の話であって、個人意識が高揚した現代人ならば誰でも、一生に一度はその難問に突き当たって「生きる目的」や「人生の意味」に付いて苦悩し、答えが見出せない超難題に頭を悩ますのが普通です。

 一匹の働き蜂(はたらきばち)が突然進化して、人間の様に心の広域ソフト帯の方で物を考えられる様になったと仮定して見ましょう。心の目を開いて明るくなった蜜蜂が最初に感じる苦痛は、「俺は一体何が悲しくて毎日毎日、あくせく花の蜜を集めなければならないのか」という疑問です。お腹がすいた時にだけ蜜を吸って、自由に大空を飛び回りたいと言う願いは生物ならば皆一緒、だが個の都合を優先させれば蜜蜂社会は崩れてしまいます。そもそもこの自然界は、集団から離れた単独蜜蜂が寿命を全うできる様な甘い世界ではありません。たった一匹では一夜すら無事に過ごせないと言う過酷な現実が、集団に結束力を促し群れの規律を遵守させています。
 その昔、一生物種に過ぎない人間の祖先も「野生の脅威」から身を守る為に集団社会を築いて来ました。特に力の無い子供や女性が領地から離れて一人歩きをする事など言語道断の行為、自分勝手な行動は猛獣の餌食となるか、迷って餓死するか、あるいは他部族に拉致されて晒し者になるだけの話です。たった一人の女性捕虜を取り返すのに部族間戦争を起し兼ねません。社会に迷惑を与えず賢く生きる為には必然的に社会の掟に従わなければならない必要が有ったと言えましょう。
しかし考えて見れば、「自然界の脅威」は今も昔もそんなに変わってはいません。野生から遠く隔離された人間社会の内部と言っても、その構造は自然界の営みと同じ、弱い立場の人間や間抜けた人間をおとしめる罠(わな)は、社会のそこら中に張りめぐらされているのが現状です。今では最も安全だった家庭ですら安心できる場所とは成っていません。特に子供やペットはいつ家庭が崩壊して、親に捨てられるかビクビクして過ごさなければならないと言うのは、悲しむべき事態と言えます。

さて、女王蜂が出産を拒否して、働き蜂が労働を拒否すれば、蜜蜂社会はたった一夏で滅んでしまいます。外敵のスズメ蜂に攻撃されて巣が全滅するならともかく、内部崩壊を起して自滅するのは頂けない話です。それと同様に母親が子育てを拒否して、父親が仕事を拒否すれば、家庭は瞬く間に自己崩壊を起してしまいます。不慮の災難で破壊されるならともかく、親の勝手で家庭崩壊を誘発させるのは如何なものかと思われます。そもそも男女の恋愛と結婚生活(営巣)は全く別種なもの、先に巣を造らないと結婚出来ないのが“生物界の掟”です。
つまり、夫婦愛(陽)が家庭の土台基盤をなすものでは無く、生活の営み(陰)が最優先事項であり、本命の夫婦愛とは後から生じて来るものだと言う話です。男女の恋愛感情を基盤にして結婚生活を始める行為は、土台を築かずに家を建てる行為と一緒、陰陽の順序を踏み間違えています。一つ屋根の下で生活して行く内に、単なる恋愛感情が徐々に実って夫婦愛という完熟した姿に成長して行くものです。家庭を築く行為と、会社を築く行為は皆一緒、重要な事は先ず経済基盤を固める事が先決であり、その意味や意義というものは必ず後から生じて来るものなのです。
物事の本枠を抜粋して総括を下せば、確かに夫婦の一生とは男女の愛の成長物語と言えます。しかし、上辺の形質とは言え事実上は男女の生活物語であって、死が二人を分かつその段階に至ってやっと夫婦愛が完成するのですから、比率から言えばどちらにウエイトがあるかハッキリしています。特に新婚当初は八割方“陰の比率”が支配する為に、それは純然たる生活物語に過ぎません。「二人の愛は一体どこに消えたの」と叫んでも、愛は最初から存在するものでは無く、今芽吹いたばかりなのです。とかく若い人間は恋愛(欲望の一種)と愛を勘違いしていると言えます。
しかし、ウエイトは大きいとは言え、生活物語が夫婦の本質ではありません。なにが重要かと言えば、やはり未熟なヨチヨチ姿でも夫婦愛こそ夫婦の全てです。愛とは“合い”の意味であって、互いに認め合い、補い合い、譲り合い、庇い合って、心の一体性を深めて行く事です。その合い情を育てなければ、破風が吹き荒ぶ諸魔多きこの世では、長年に渡って夫婦の形態を維持する事は不可能な話です。夫婦関係が単なる生活物語で終わるならば、こんな不幸せな事は有りません。
生活物語をそっち退けにして、愛情物語を優先させれば、皮肉なことにその夫婦の命は短くものの見事に頓挫する運命が待ち受けています。結婚生活を壊さずに長く続けたいならば、生活物語を優先させる方が簡単です。別に愛情は無くても共同生活は続けられるものであり、陰とは本来そういう形態のものです。長年連れ添っても、その様な心が感じられない抜け殻(がら)だけの「空蝉(うつせみ)夫婦」に意味が在るとは思われませんが、少なくても激しく陽化した「破滅夫婦」よりも、家庭破壊を起さないと言う理由から言えば“罪が薄い”と言わざるを得ません。
これから結婚する貴方に言いたい事は、家庭とは築くものであって、物を造り上げると言う並々ならない下向きの「陰の姿勢」で望まないと、ほんの一瞬で壊れてしまうと言う事です。そしてもっと重要な事は、「陽の芽生え」を確認したら、その絆を大事に育てて行くと言う事です。夫婦の愛情物語とその子供(絆)の成長物語は基本的に一緒、まるで鏡に反映した虚像の様に、夫婦の愛情が冷えれば子供と親の関係も冷えてしまいます。子供を健全に育てたいなら、夫婦愛を健全に育てるのが一番の早道、子供がおかしくなったら自分達の姿を鏡に投影して軌道修正する事です。

 

次回に続く

 

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