人は何の為に生きる?(6)

五つの判断力(五識)

 宇宙とは桜の木であり、生物とは桜の花びらだと言って、それで納得できる人間が一体どれほど居るでしょうか? しかし、植物を本当に良く知っている人ならば“なるほど”と思うかも知れません。動物の感覚神経が手足に集中している様に、植物の感覚センサーは主に枝葉に集中しています。なまじかの科学知識を持つ人間ならば、「植物に感覚神経は無い筈だ」と言うと思いますが、そんな事はありません。葉一枚一枚が高性能の立派なセンサーの役割を果しており、それは“おじぎ草”や“食虫花”を見て貰えば一目瞭然です。植物はその全体(植物球体)が中央センサーであるばかりか、特に鋭敏な部分センサー(葉のこと)を大量に持ち、外界のあらゆる情報を集めているのです。
無論、植物と言っても一生物に変わりはなく、その生命球体を操作する意識の当体は上空の地球磁場圏に存在し、その磁場位相(植物位相帯)は地表から上空高度約3000m付近まで広がっています。これは植物の意識層と呼ばれる階域ですが、個々の植物は皆、この磁場位相と連絡しており、その全体意識もそこに存在します。当然、それより上空は大脳アンテナを備えた小動物の意識層であり、その磁場より上空では植物は自然成長しません。山脈の頂上で植物が自生しない理由は、気温や土壌菌の問題以前の「問題」があるからだと言えます。
さて、目に見える形質を取り払って、磁場という本質だけで植物の生態を考察すれば、小さな磁場センサーを統括する中央磁場センサーが存在すると言うのが植物の肉体です。その構図はコンピューターの端末機(パソコン)とその情報連絡を統括する大型計算機の関係と一緒です。植物の場合は更に、その肉体を統括するフレーム磁場(心のこと)が存在しますが、最近ではコンピューター界にも大容量の中央フレーム計算機が登場し全体統括を引き受けています。
この様な「場」の観点から宇宙を眺めれば、宇宙そのものが超大な情報を集積する能力を備えたフレーム・コンピューターだと表現できるのであって、それに対して我々生物とは詳細な情報を集めて本体に送信する「高性能のセンサー・ロボット」だと言えます。宇宙的な規模から考えれば、地球や太陽や銀河の磁場圏など単なる中継コンピューターに過ぎないのかも知れません。つまり、宇宙を「桜の木」とすれば、生物とはやはりその「花びら」や「葉」に各当するものだと言える訳です。
ならば、宇宙にとって我々人間の使命とは一体何でしょうか? 端末機の役割は正確な情報を本体に送信する事であり、枝葉が本体に外界の情報を送る事によって、本体はその情報を分析し、どうすべきかを決定しているのです。例えば、外部センサーが雨を感知したら、根に指令を送って大量の毛細根を伸ばし、速やかに水分を吸収する準備をすると言った具合です。宇宙が一体何の為に人間を創造し、それに一体何をして貰いたいのか、正しく表現すれば、宇宙は何の為に人間にその意識の一端を吹き込むのか、その最大の理由がこの情報集積に有ります。
「エッ、 たったそれだけの話?」と貴方は思うかも知れませんが、これが一番重要な事なのです。貴方の意識は宇宙の化身であり、その全体意識の一端を形取るものです。貴方が今「宇宙とは一体何?」と考えているのならば、宇宙自身もそう考えているのです。「俺は一体何なのだ」、「俺はどうやって誕生しこの先どうなるのだ」その知りたいと願う内なる悲痛な叫び声を貴方は感じないのでしょうか?
桜の木を映し出す大きな鏡が存在すれば、自分がどの様な形態をしているのか納得できると思いますが、原則的に自己の姿を自分で見られないのが万物の宿命です。もし、人間がこの世にたった一人しか存在しなかったら、自分が人間である事も気付かなければ、また背が低い方なのか、太っている方なのか、綺麗な容姿なのか、まるで分からないものです。この世はたった一人では自分で自分を認識する事が出来ない世界なのです。それは植物も一緒であり、それが故に外部センサーの方から、客観的に自己を見つめようします。宇宙の意図はそこに存在します。
自分が何者か分からない宇宙は人間に意識を宿して、そこから客観的に自己を見つめているのです。だからこそ人間は「我を知りたい」と痛切に思い、宇宙の諸現象のあらゆる謎解きをして森羅万象を知りたいと願うのです。人類の大きな勘違いは「万能なる神」という人間模様を呈する架空の創造主を造り上げてしまった事です。「万能なる神」とは現実に存在するものでは無く、それはこれから人間が成長して行く「到達点」に過ぎないのです。確かに原始宇宙を奏でる創造主の当体意識(宇宙の統括意識)は実際に存在するものですが、それは今世の宇宙開闢(ビック・バン)と共に粉々に砕け散って、そのバラバラになった意識の一端を拾って生命が誕生して来るのです。不思議なことに、破壊は次の創造を産みだすものです。
今この宇宙には宗教で論じられる様な「万能神」など居ないことを、そして人間とはそれ自身がいずれ神に成長する為に、つまり創造主の当体意識を再現する目的で、創造されたことを知って欲しいと思います。従って、人類はただ神の救済を待つのではなく、自力で未来に至る道を切り開き、自力で無知を払拭して、自力で大道を歩み成長しなければならないのです。生死の輪廻を超越した(世代を超えた)【心の進化】こそ人間(宇宙生命体)に課せられた究極的な「使命=生きる目的」と言えるでしょう。
「人生の目的」を見失っている貴方に言いたい事は、個の意識に執着せずに、自己の心(生命)の深淵に潜む「宇宙の全体意識」に目覚めなさいと言うことです。単なる人間(猿)で生きれば、苦悩に喘いで徒に躊躇するだけの話ですが、我(われ)が宇宙である事に目覚めれば、何者にも左右されない堂々とした精神境涯を築けるばかりか、未来を一点に見据えた有意義な人生を送って、生を謳歌し生きる喜びを享受できるものです。別に、やり残したと後悔する必要は有りません。貴方が全てやってしまったら、後世の者の仕事が無くなってしまいます。人間が完全完成(万能神)するのは遠い未来の話、自分がある程度成長したら、次の世代の成長を導くのが、我々大人の義務なのですから。

宇宙意識を再現する心(生命)とは、肉体に憑依して自己の存在をRAM磁場で客観的に認知した「無知な天体意識」の事です。RAM磁場には潜在記憶が無く、如何なる生物も知識や経験を一つ一つ学習して成長して行きます。しかし、RAM磁場とは本体(地球磁場位相)と結合しているとは言え所詮「肉体の磁場」の意味、全ての判断作用は外ロムである磁場位相の方で営まれています。その磁場位相に定位置は存在せず、用途に応じて人間は瞬間瞬間その入力対象の磁場ソフトを変化させています。自己の意識を煩悩階ソフト(知性階もしくは感情階とも言う)に入力すれば、如何にも人間らしい判断能力と感情の発露が身に付きますが、そこで意識を囲っている限り欲望の制御が難しい階域でもあって、それが故に煩悩階と呼ばれています。

 

その人間の磁場位相(意識を営む小磁界)が今、地球磁場圏のどのソフト領域に同会しているのかで、本能的に反応したり、感情的に対応したり、理性的に振舞ったり、あるいは達観してみたり、生命の現れた方がまるで異なります。普段は理性的な人間であっても、相手や状況次第では露骨に感情を表す場合もあり、いつ同会ソフトを変化させるか分かりません。しかし、このソフトの使い分けには年齢制限が存在し、年を取った人間が低い軌道の磁場ソフトを長時間使用する(目線を下げる)行為は、位相の収縮(集中)の都合上大変難しく、原則的にいつまでも怒っては居られません。感情的な自我形成は神経を磨耗させるので、年寄りはなるべく楽チンなリラックス磁界である理性階ソフトを好む傾向にあります。年齢を刻むと自然に理性階ソフトを使用できる様になるのが、人間の最大の特徴と言えますが、当然この広域ソフト帯の選択は優秀な大脳アンテナを持つ生物の特権だと言っても構わないでしょう。
では、人間に取って一番大切な判断力(ロジック=頭脳性能)の向上は、どの様な成長段階を経由するものなのでしょうか? 無論、これは同会先の磁場ソフトの軌道の高低とも関る話であり、高い軌道になればなる程(膨張すればする程)、その分位相磁界の体積容量が増加し複雑な思考判断が可能となって、高次の哲理解析が出来る様になります。当然、年齢成長が未熟な若い生命体にとっては、物事の真偽を見極める「洞察力」や真理を解析する「識別力」は雲上の能力と言えるのであって、高い磁場ソフトに自己の位相を同会させる事自体が物理的に許されておりません。これは能力訓練ではどうにもならない壁が存在すると言う話であって、天才など存在しないと言う話です。

 釈迦仏法では生物の成長段階を五段階別に分類して、色(しき)―受(じゅ)―想(そう)―行(ぎょう)―識(しき)という五陰世間(五行差)に分けています。これは人間の成長段階を表すと同時に広義の意味では生物種の進化段階を表現したもので、陰から陽へと流転する物事すべてに当てはまる本質的なものです。生命論でも、生命体の判断能力の段階的な発現様相を五行分類しており、区別力(水)―類別力(金)―判別力(土)―分別力(火)―識別力(木)という五段階の要素で表現しています。
人間の子供が最初に発揮する能力は“区別力”であり、これは物事や事象の「程度」を直感的に判断する最も原始的な能力と言えます。赤ちゃんには明暗や上下や寒暖や甘辛の区別という単純な区分けしか出来ず、それは生物以前の物体(粒子)が極平均的に有する能力であって、極めて肉体的かつ本能的なものです。磁場ソフトで表現すれば、地球表層の第2磁層に各当し、そこは大脳を持たない下等生物や物質の意識層を司る磁界領域だと言えます。赤ちゃんの心の領域は地上高度が数百mの軌道付近に存在し、それは高等植物の意識層よりも更に低い菌類の意識層で自己を形成しています。
それに対して、幼年期から少年期にかけて発揮して来る能力は比較対象ができる“類別力”であり、これは一群の中から目的の物だけを選択できる能力のことです。赤ちゃんが食べ物とその容器の類別が付く(違いが分かる)までには大した時間は掛かりませんが、子供が文字や言葉の類別を学習して、テレビ・ニュースの類別が出来る様になるには、結構な時間が掛かります。それが政治ニュースなのか、それとも単なる事件ニュースなのかの判断力は、学習して知識を積まなければ類別できません。

 

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