生命査定術 その3

〈余波率に関して〉
 一年を十二分割したものが月節であり、また一日を十二分割したものが時節である。現代は昔と比べて悠長な時代ではない事から、時節は二十四分割されているが、べつに四十八分割にしても基本は何も変わらず、時節は原則として二時間単位で変化して行く。磁場の変化サイクルは温度のサイクルと一緒で、バチッと包丁で切った様な様変わりの仕方はしない。必ず余韻が残って次の月節や時節に前節の影響が食い込んで行く。易学ではその割合を「余波率」と呼んでいる。例えば、昨年と今年の境目は学問的には毎年1月5日頃(1月4日〜1月6日)だが、1月とは子月であり、陰に伏した胎児月であって、今年のイメージなど実際にはこれっぽっちも無い。やはり今年一年の感覚は2月4日(丑月の初まり)の節分から出発しており、だがそれでもまだ今年感は薄いもの。実際上は今年一年の稼働は春3月(寅月)からであって、何事も陽の比率が三割を占めないと「陽動」にはならない。しかし、3月はそれでもまだ年初めとは言えない。易学上では誕生(今年の始まり)を意味する2月4日の節分をもって、それより前に生まれた方は昨年の干支、またそれより後に生まれた方は今年の干支として扱っている。胎児期は生まれる以前の母体の管轄下、人間としてのスタートはやはり赤ちゃん(丑)からである。
 
 時節に関してもその理屈は同じで、丑刻(朝3時〜5時)の始まりの時刻を基点として昨日と今日の境目としている。ただ、経度の違いで生まれ時間に多少の差がある為に(日本の場合は明石を中心に前後約30分間のズレ)、それを加味しなければならない。丑刻は原則として朝3時〜5時の間だが(昔は朝1時〜3時までが丑刻であると間違って認識していた)、丑刻の余波は実際上は朝4時〜6時まで残っており、この時間帯に生まれた方は丑の容貌や容姿を持って生まれて来る。では東京で朝の2時00分に生まれた方は昨日生まれなのか、それとも今日の生まれになるのかと言えば、明石-東京間の時間差は10分以下である為に、この方は暦上は朝の2時10分頃の生まれとなり、実質的には前の日に誕生した生命であって、子の刻生まれでアセンダントが真裏の午の顔で現れる事になる。子刻の範囲は原則的には朝1時〜3時までだが、子刻の余波が朝2時〜4時まで効力を持っている。従って、朝の3時00分に東京で生まれた方は事実上の生まれ時間は3時10分となり、この方は本日生まれであって、丑刻で誕生したにも関わらず、実際には前者同様に午の顔で現れる。
 
 辰月(双子座)とは原則的に5月6日〜6月5日の範囲であるが、辰月の余波が及ぶのは5月21日〜6月21日であり、例えば5月19日生まれの方でも月節の性格は一つ手前の卯月のものであり、辰月の性質は何も持っていない。一方、5月22日生まれの方は正真正銘の辰月生まれで、辰月の性質を示す。ちなみに辰刻の正式範囲は朝9時〜11時までであるが、辰のアセンダント範囲(余波の範囲)は朝10時〜昼12時までの間である。非常に厄介な話だが、昨年と今年の中間点に生まれたからといって両方の性質を示す訳ではなく、必ずどちらか一方の星を取っているもの、両方の性質を比較すれば明らかに異なるのですぐそれと分かる。その方の生年月日が境目で、どちらなのか判別が付かない場合は、我々はその方のズザネ管を手繰って、どの磁界に位相が存在しているか確認する事が出来る為に間違う事などあり得ないが、だが性格や体質を見ればその違いは歴然としており、いちいち位相を確認する必要も無い。生まれ年にはその年共通の性格があって、また生まれ月にも共通の性格や特徴がある。さらに生まれ日の性質は位相の性質そのもので本質的なものであり、また生まれ時間では基本的な骨格や容姿まで分かってしまう。
 
 
 
 
   5) 辰(たつ)の生命      ※ 磁界: 第5磁界(知性階)
                ※ 容量: 5cal
                ※ 分類: 仮諦階仮諦(液体階液体)
                ※ 人象: 青年(青春期)
                ※ 星座: 双児宮(双子座)
                ※ 月節: 5月(辰月)
                ※ 時節: AM9時〜AM11時(辰刻)
 
 
         ※ 〈磁場の特徴〉
 第5磁界は第4磁界を取り囲む領域であり、同じく星間物質を大量に生産する磁界である。高度半径は約2万7000km、上の第6磁界と下の第4磁界に挟まれた領域であり、岩石渦が例外的に少ないのが特徴である。この磁界の役割は主に「水(H₂O)」を生産する事であって、同じ惑星の土星や天王星や海王星でも「環」の中央部に当たるこの第五領域には大量の氷塊が浮いている。古事記ではこの磁界の事を「大斗乃弁尊(おほとのべのみこと)」と称するが、第6磁界の天体力体(内ヒール力体: 正12面体)の直轄領域であって、水磁場被膜に包まれた特殊な領域である。太陽系内では地球以外にヒール力体を備えた惑星は存在しないが、生物創造に関わる最も重要な中核領域の磁界である。コアの育成段階の原始地球には重水素ガスしか存在しないが、各種のコアが形成されて、D-重合体が分解し始めると大量に作られる元素が岩石の主成分である酸素とケイ素であり、ヒールの水磁場被膜は上下の磁界から酸素分子を捕獲し水を生産する場であるが、同時に「水分子を水たらしめる特殊な形質」を転写するのも水磁場被膜の役割、その力学被膜は今も健在であり、地表の水に常に作用を及ぼしている。水ほど不思議な分子は存在しないが、「生物の心は妙諦、意識は空帯、体は仮諦(けたい)」というのが、人間王国の伝統的な格言である。現在の第5磁界には水分子は無く、バン・アレン帯の上層部を占め、赤道環電磁場の内部にあって、プラズマ化した粒子が飛び交う放射能帯を呈している。
 
         ※ 〈辰の意味〉
 辰の語源は「震もしくは振(しん: ふるえる)」であり、もともと枝葉を繁らせた植物が風に震える様を表現したものである。漢字の象形は二枚貝の中から舌(擬足)が出た形状であり、二枚貝とそっくりな唇(くちびる)や女性器(大陰脣)を象徴し「娠(みごも)る」事を意味している。また「振」とは振動や振り子の意味で、男性の往復運動を指している。従って、辰とは「竜(たつ)」の意味ではなく、この生命が恋愛に現を抜かして宙を飛んで歩く事から、非現実的という意味で架空の産物である竜になぞらえられた。辰は生命の第五段階を指す表意言語であり、季節は5月(立夏)、植物で言えば、開花し花びらを出して受粉する段階を指し、人間で言えば、思春期を過ぎた青春真っ只中の若者であって、結婚して子作りをする段階の意である。植物にしても人間にしても、生涯の中で最も活性に富んだ、華やかで麗しき夢の様な一期間、しかし意識が高揚し、精神が浮き上がって現実から離脱する五月病(鬱病)の如く、必ずしも良き期間とは言えず、とかく青春期とは未熟な大人の期間とも言える。易学上では辰は陽化具現率が40%を超えた段階を表し、エネルギーを貰う段階からエネルギーを吐き出す段階になった事を意味している。また仏法十二因縁では「愛(あい)」と呼ばれる生命段階で、「してもらう」欲望から「してあげる」愛を持った段階とされている。また西洋占星術では黄道十二星座の中で五番目に出現する星座を双子座と称し、夢と現、愛と欲望、善と悪、嘘と真実、楽しさと苦しみといった、互いに矛盾する正反対の要素に苦悩する青年の星として語られている。
 
         ※ 〈磁界の質〉
 第5磁界の特徴は、何と言ってもそれが星間物質の主軸である「水」を生産する磁界である事である。下層の第4磁界は主に有機物の素材を生産する磁界であったが、生物体は材料だけでは組み立てられず、基本的に水無しでは命の生理そのものが営めない。無論、水を供給したところで、それが液体(仮諦)でいられる物理条件が揃っていなければ意味を持たないし、また「水磁場被膜」が水に特殊な能力を付加してやらないと水本来の特異性が生まれて来ない。だが、水の重要性は敢えて述べるまでもなく、生物体にとっては必要べからざるものである。辰の生命をよく観察すると、液体の水が持つ特性や能力とよく似た傾向を示す。これはもしかすると青春期の人間に共通するものかも知れないが、万年青年の雰囲気を醸し出す辰の生命からは大変色濃く感じられる。水の溶媒力とは他の物質を溶かし込む能力の事だが、「受け入れて許容する能力」が大変高い事が辰の生命の大きな特徴と言える。親や先生などの説教や命令もよく聞くし、また他人の意見や友達の意見もよく聞いて理解するので、守る守らない、従う従わないは別問題として、素直に容認して聞き入れる事自体が素晴らしく、その様な意味では大変育てやすく、また物覚えが良い生命で、何に対しても興味を抱いて幅広く知識を吸収してくれるので、いわゆる「優等生」の生命と言える。普通の生命は好き嫌いがあって拒否反応を起こすのに、この生命は意見でも知識でも万遍(まんべん)なく受け入れるので、そこが凄いと言わざるを得ない。聞く耳を持つ事、知識を幅広く取り入れようとする事、これは何でも受け入れる水の溶媒力と、何でも記憶してしまう水磁場の磁性力と同じである。
 
 水の特殊能力は溶解力や溶媒力だけではない。生物体にとって危険な刺激物質を水の分子磁場内に抱き込んでは無毒化(イオン化)し、それを排出したり無害な形に変えて利用したりする作用能力がある。例えば、そもそも食塩(NaCl)そのものが、Na原子にしてもCl原子にしても有機体にとっては大敵の危険分子であり、Naの超過激な電荷陽性度(化学反応力)と、Clの悪魔的な電荷陰性度(化学結合力)はいずれも破壊的なものだが、水六員環クラスターがそれを取り込んで無害化し、水錯体イオンとして、水自身が悪玉の力を利用して有益な生体分子として機能している。鉄原子にしても、Mg原子にしても、Co(コバルト)原子にしても、本当は危険な物質だが、水が錯体化する事によって、ヘモグロビンや葉緑素や呼吸還元酵素として、生体機能の重要な因子として役割を担っている。重要な認識は、液体の水が生体磁場の指令に従って生体物質を動かし機能させている事であり、鉄原子は単に水に利用されているだけに過ぎず、生体の主人公とは一体誰なのかという物事の仕組みを理解する事が大事である。生体磁場の化身である水磁場、それは生物生理の中核を担うものだが、辰の生命にはそうした水磁場の特性が備わっており、自分の事で精一杯のこれまでの本能的な生命達とは異なる。辰の生命は外界に対する作用力を備えており、人に対する親切心や同情心、社会に対する貢献心、その場の雰囲気を察知出来る繊細な感受性、生き物を愛する心、自己を伸ばそうとする向上心など、少し青臭いが、人間生命として本格的に心を稼働させた感が深い生命である。
 
 第5磁界は液体階の中の液体領域に属しており、水で表現すれば冷水(第4磁界)と熱水(第6磁界)に挟まれた常温(体温レベル)の水である。地球に液体の水が存在する理由は、地球の軌道領域が太陽磁場圏の第5磁界に当たり、ほど良い温度が保たれているからである。熱水は常温水よりも溶媒能力は高いが、個々の水分子の活動力が優って水磁場の本来の組織能力が損なわれてしまうし、また冷たい水は逆に個々の水分子の反応性が弱く、水磁場の組織能力が固過ぎてあまり発揮出来ない。また第5磁界は重力という内向きモーメントが微弱であり、その分外向きモーメントが強く作用する為に、自分以外の事にも関心を持って来る。無論、第5磁界は重力下の磁界であって、自己意識が依然として強いものの(自己顕示欲が強く見栄を張る)、内面にも外面にも同等に神経を張る事から、多感で多情、優れた感受性と、旺盛な意欲と、抜群の行動力を誇っている。そもそも第5磁界は生物環境を整える為の特別な領域、いわゆる理想的な環境を作り出す為の場である。そのせいなのか、辰の生命の理想主義は如何ともし難く、何をやらせても上手にこなすのに、自分が理想するものが出来上がらなければ自分自身を許せないのか(納得出来ないのか)、完成間際でいつも投げ出してしまう。物凄く能力が高い生命なのに、良くも悪くも物事を完遂させないところがあり、この生命の最大の欠点(途中挫折)と言える。少しでも瑕(きず)が見えてしまうと、もう熱意が薄れて飽きてしまうのである。
 
 第5磁界(辰)と第11磁界(戌)は生命の下限と上限に当たる事から、辰の生命の背後にはいつも正反対の基質である戌の生命の特性が見え隠れしている。優しくて素直で勉強好きで非暴力的な辰の生命(お利口ちゃん)の真裏には、それとは真逆の顔が潜んでおり、怜悧で虚無的で残酷な破壊王の一面が隠れている。感受性が高い辰の生命は裏側に潜む真逆の自己の存在に気が付く事から、その葛藤に苦しんでいる姿をよく見掛ける。まるでジキルとハイドの如く、善良な顔と悪魔的な顔を持っているのである。無論、それが双子座の名前の由来にもなっているのだが、普段は思いやりのある慈悲心に溢れる生命なのに、相手の態度如何で、あるいは自己が置かれている環境次第で、鬼の様な残忍な生命に変身する場合もあって、正気と狂気が入り乱れる事が少なくなく、高性能生命だが精神的に脆く不安定という評価は免れない。あれほど可愛がっていたペットなのに、またあれほど執着していた作品なのに、ある日突然に可愛くないと思い始めて、また何とお粗末な出来映えだろうと思い直して「見向きもしなくなる」と言う突然の豹変ぶりは、ペットにとっても作品にとってもあまりの仕打ちである。それまで手間隙を掛けて来たのだから、ペットを最後まで面倒を見る責任、また作品を最後まで完成させる義務は遂行せねばならず、「嫌になったからやらない」という問題ではない。不安定に揺れ動く情感、この生命は自己の感性だけで物事を判断してしまう傾向が強いので(知性だけで結論を出してしまう)、重い責任が求められる仕事には不向きかも知れない。
 
         ※ 〈一般的性質〉
 一般に辰の生命は多情多感で鋭い感性を持っており、「アッと言えばツっと返って来る」様な、機敏な反応性に富んだ動的な生命である。頭の回転も滑らかだが口の回転も滑らかで、おまけに心の挙動が激しく、外面も内面も何ともせわしない性分で、ジッとしている事が少ないまことに落ち着きが無い生命である。その場の雰囲気や状況に合わせて無節操にもコロコロと気分や態度を変化させる為に、一向に捕らえどころが無く、傍から観察すれば、如何にも方円の器に従う水の如き軟弱系の液体人間であって、一定で確固たる自色を示さないカメレオン風の生命と言える。基本的に格好付け屋さんで見栄張る君、恥をかく事を大なる屈辱として恐れる傷心人間であって、その弱くて脆く壊れやすい神経は「ガラスの心臓」とも呼ばれている。だが、この生命は大変な知識家であり、知らない事を恥と感じる生命で、優秀な記憶力で次々と知識を吸収して行くが、興味本位に何でもカンでも手を染めて、間口ばかり広げてさっぱり奥行きが無い傾向は否めない。物知り博士を装っても、幅は広いが表層の浅い知識に止まり(クイズ王)、深い専門知識を身に付けたり、自己の理論を一向に築き得ない請売りの「疑似博士」である。
 
 そもそも、この生命の得意技は仕事の要領や骨を掴む早さであり、切れ味の鋭い高性能マシーンであるところが売り物であって、状況に合わせて臨機応変に処理し、変幻自在に操作する能力を武器にしている生命である。人より上手にやって見せるとか、描き方や表現力が人より上手だとか、誰よりも上手く操縦出来るとか、そうした類いの生命であって、開発する人間でもなければ、一から開墾する人間でもなく、また創作して築き上げる人間でもない。本人は開発者や発明家やパイオニアや創作者に憧れるが、その実力が伴わない理由は、物事の多くを知性階(つまり感情階)で用を足してしまい、理性階や精神階をさっぱり使わない生命だからである。重力圏内の小物磁界をそのまま使用している為に精神の器が小さいままであり、小さいからこそ感受性が強く、人の言葉にイチイチ振り回されてしまうのである。特に第5磁界や第6磁界の生命は、べつに精神の裾野を広げる努力を講じなくてもそのままでも普通に生きられる磁界の容量を備えている。そのせいか、知性階から卒業出来ない方の比率が圧倒的に多い磁界でもある。実際問題として、東大出の優秀なエリートなのに六道劣化してしまうというケースが多く、知識を修得する磁界が知性階で、知識を活用する磁界が理性階であって、知識を丸暗記して頭をさっぱり使っていないのが知性階の生命の特徴なのである。
 
 辰の生命のもう一つの特徴は異性に対する情欲の強さであり、恋をすれば体ごと溺れて何も見えなくなってしまうという典型的なタイプと言える。辰の感性の豊かさが恋するロマンチストを作り上げているのか、それとも恋する事に恋しているのかよく分からないが、その恋愛観は大変能動的なもので、一旦好きになった者だけを対象に発動し、その一途な情愛が覚めない限りは他の異性には目もくれず、いくら言い寄られても関心すら抱かないという一直線な性質を示す。つまり自分が好きになった者しか眼中に無いという一本気の片道基質、横槍的に他の異性が介入しても、自分の理想像とマッチする相手でなければ恋愛劇には決して発展しないというのが辰の恋愛観の典型的な特徴である。当然、辰の生命にとっては恋愛=結婚だから上手く行く筈も無い。手に入れてしまえば覚めてしまうのが物事の道理、辰の恋愛観など相手をモノにしたいという「愛欲」に過ぎなく、それは愛では無く欲望の一種だからである。そもそも恋愛の相手と結婚の相手は別もの、結婚は人生のパートナーの選択であり、本物の愛など後から生まれて来るものであって、欲望の様に最初からありきのものではない。辰の生命は後先の思慮分別も無く、全身全霊で恋にのめり込んで、自ずと知れた結果を招来させてしまう。たとえ恋を実らせても、一年も経たないうちに冷め切って己の浅はかな行動を嘆き、自己嫌悪に陥るのが一般的な相場である。
 
 この生命は哀れみ深く同情心の発達した優しい生命であり、特に傷を負った弱い者を庇護する思いやりが強い。従って、心根の悪い人間だとは誰も思わないが、夢ばかり追って確固たる意志や目的を示さず、またその場凌ぎのいい加減主義が単なる粗忽なお調子者にしか見えず、家族や周囲の者にとっては何とも頼りにならない非力な人間に見える。仲間同士で飲みに行っても、酒の勢いを借りて「俺に任せろ」と言っては見たものの、本人はその場限りの心情を口にしただけに過ぎなく、結局お役を引き受けると約束したにも関わらず、何一つ実行されずに仲間に対して不義理を重ねてしまう。時に発奮して「俺程教養のある者はいない」とばかりに物識顔をするものの、すぐに突っ込まれて知識の浅さを露呈してしまい、恥の上塗りをする事になる。辰の生命と言えば感情階の真っ只中の生命、ここにいる限り(精神を置く限り)、水磁場の器を出られず、世俗の中から一歩も抜け出す事が出来ない。頭を使っている様に見えても、さっぱり自己の頭を使って真剣にものを考えた事が無いので劣化を余儀なくされてしまう。しかし、精神修行を積んだ方はごく普通に上階を使用しているし、六道劣化するどころか解脱して地球人を卒業している方もいる。
 
 
 
 
   6) 巳(へび)の生命    ※ 磁界: 第6磁界(知性階)
               ※ 容量: 6cal
               ※ 分類: 仮諦階空諦(液体階気体)
               ※ 人象: 中年(壮年期)
               ※ 星座: 巨蟹宮(カニ座)
               ※ 月節: 6月(巳月)
               ※ 時節: AM11時〜PM1時(巳刻)
 
 
         ※ 〈磁場の特徴〉
 第6磁界とは仮諦階の最終磁界であり、地球12磁界の真ん中に相当する央分磁界(高度半径約4万8000km)であって、一年の半分もしくは一日の半分に当たる中間の磁界の事である。無論、高度半径が800万kmにも及ぶ渦巻全体から見れば内部のほんの小さな磁界だが、この領域を境にして内磁場(陰)と外磁場(陽)に分かれている。登山行程で言えば前半の登り行程と後半の下り行程の真ん中(頂点)を意味し、一日で言えば前半の午前行程と後半の午後行程を分ける境目(正午の事)の意味であるが、西洋易が東洋に伝わった際に解釈の間違いが生じたのか、真ん中は巳刻と決まっているのに午刻にしてしまった事から、西洋易と東洋易には2時間のズレが生じてしまった。本来、正午(しょうご)ではなく正巳(しょうみ)と表現し、午前を巳前(みぜん)、午後を巳後(みご)と呼ぶのが正解である。古事記では第6磁界は「意富斗能地尊(おほとのじのみこと)」と称されている。内磁場(下六道界)と外磁場(上六道界)を分ける第6磁界の中央部に重力交点とも呼べる「内テトラ球体」が存在し、それより内側は重力圏、それより外側は磁力圏であると決まっている。第6磁界は星間物質を生産する磁界であり、主に岩石を形成しているが、岩石内の鉱物元素は原子量が170以下の中間質量のものが多い。系内で出来た浮遊岩石は、既に系外に弾き出されたものと地表に落下して吸収されてしまったものが存在するが、特筆すべきは衛星の月であり、月軌道は本来第6磁界と第7磁界の中間点に位置していたが、徐々に離心して現在の軌道にある。
 
 
         ※ 〈巳の意味〉
 巳の語源は「巳(み: たつみ)」と、それと正反対の方向の文字が隣り合った形状の漢字が原型(実像と鏡像を並べた形状)、もともとは西洋占星術のカニ座のマーク(♋️)からなぞらえられた合成漢字で、その意味は「〜が終わって〜が始まる」という境界の意味である。従って、巳(み)の原形は巳(たつみ)であり、逆向きの巳(鏡像型)の方は省略されて片側だけの形状に簡略化されたもので、動物の蛇とは全く無関係である。この生命が「迷いの生命」であって、信奉心と猜疑心の狭間でクネクネと不安定に揺れ動く性癖がある事から、後の世で「蛇」になぞらえられた。6月の夏至点(極点)を境に日長(日照時間の長さ)の上りの行程と下りの行程が分かれる様に、人間も壮年期(40歳代)を境にして、これまでの「大人に成長して行く生道行程」と、逆に「老人に向かう退道行程」という両行程に分かれるが、その中間点(分かれ道)を指す。植物で言えば枝葉を充実させた極繁状態、人間で言えばやっと大人になった状態、登山で言えば山の頂点に到達した状態、水で言えば熱水(液体)と水蒸気(気体)との臨界点、昆虫で言えば幼虫と成虫の中間点(さなぎ)を意味している。完成とは程遠い「駆け出しの大人(40代)」の生命段階を第6段階と称している。易学上では巳は陽化具現率が50%を超えた状態(60%未満)を意味しており、また仏法十二因縁では巳は「取(しゅ)」の段階とされ、未だに煩悩の欲望世界の中で奪い合いに没頭している未熟な生命段階を意味している。西洋占星術では黄道十二星座のうち第6番目に出現する星を巨蟹宮と称しており、家族を守る家庭愛と、それとは矛盾する社会的な献身愛に苦悩する熱血漢として語られている。
 
 
         ※ 〈磁界の質〉
 第6磁界の特徴は、何と言ってもそれが真ん中の央分磁界であり、これを境にしてベクトルの方向が異なる別段階へ向かう分かれ道であるという事である。液体の水は自己の形状を保とうとする原始本能を有しており(エネルギー保存則)、熱を加えて分子を励起させて沸騰させない限りは、自己を極力保全しようと務めるのが固体や液体の水が普通に有する分子凝集力である。当然、固体や液体のベクトルは固まる方向であり、求核的(求心的)な内向きベクトルを呈するが、気体の水は個々の分子が空間に拡散して凝集力から解放された状態であり、当然ベクトルの向きは外向きの遠心的な方向を指している。そのせいなのか、巳の生命には常に向きが異なる道が存在しており、ガツガツとした求心的な欲望(地位や財産を求める)と、社会や国家や人類に対して純粋に奉仕したい(力になりたい)と願う、互いに矛盾する心の方向性を備えている。社会の花形になりたいと願う辰の生命(青年)と、社会のお役に立ちたいと願う巳の生命(壮年)では大人と子供の差があるが、「俺はこれだけしてやったのに」と自己奉仕に対する見返りを求めるところがまだ青臭く、結局のところは自己を捨てられず、社会に対して我が身を解いて同化出来ない(気体にはなり難い)、いわゆる上等な六道凡夫で終わってしまうところが今一小物である。それでも、第6磁界とは宇宙の本源(万物創造)である気の粒を集約する場所であり、子供を養育して家庭を庇護する磁界である事から、親行(親業)が出来る生命段階であって、これだけでも存在価値は立派にあると言える。
 
 第6磁界は重力と磁力の境目に位置する事から、抑圧力(ストレス)が殆ど付加されない磁界である。生物は自己の心動帯を上げ下げする関係上、第6磁界は基点となる場所柄であって、睡眠から目覚めた場合は第6磁界が一日の活動のスタート地点となる。これより上の磁界は肉体を操作する磁界ではなく「ものを考えて判断する磁界」であるが、朝起きて活動する為にはどうしても第6磁界以下の、体を操作する磁界へ入力する必要がある。この磁界に心を同会させている間は何の緊張感も無く、物事をボヤッと考えながら同時に手足を動かす事が出来る。それがこの磁界の最大の特徴である。プレッシャーが無く自然体でいられる磁界であるが、こうした磁場の性質を巳の生命も多分に反映している。巳の生命の者は卯の生命よりも世間体や体裁に神経を張る訳でもなく、また辰の生命の様に周囲に対して敏感に気を配る訳でもない。外出してもよそ行きの対面を繕わず、普段着のままの素顔を保てる人間である。気取らず意識せず格好をつけず、かといってボロボロの衣服を身に纏う訳でもなく、エチケットや道徳を無視する人間でもなく、極めて普通の自然体なのである。しかも人情家で大変優しく、恥をかいても俯(うつむ)いて自分を責めるタイプである。攻撃されてもあまり反撃しないし、面と向かって相手を攻撃する事も無く、相手を傷付ける様な辛辣な暴言も吐かない。少なくともこれまでの生命の様な子供っぽい真似はしないし、紳士や淑女に近い生命である。
 
 足のサイズに関して「馬鹿の大足、間抜けの小足、中途半端のろくでなし」という言い方があるが、その意味は上だろうが下だろうがあるいは真ん中だろうが、欠点の無い者は存在しないという格言であると思われ、その様な意味では我々も納得せざるを得ない。そもそも地上の人間はヒトに成長する為の修行中の身の上、最初から完成した生命がいる訳が無い。六道界のトップに位置する第6磁界であるが、山の頂点に登り切っても登山行程の半分を終えたに過ぎず、大事な下山行程を終えなければ登山が完了した事にはならない。何を言いたいのかと言えば、物事の価値や意味や意義というものは最後の行程をクリアーしなければ得られないという話であって、巳の生命が追い求めているところの「人生の充足感」とはこの地上世界では決して得る事が出来ないという話である。特に第6磁界の真裏(上限領域)は最終磁界の第12磁界(亥)に相当する事から、巳の生命は本能的に大局観を追い求める性癖があって、そこに意味や意義を見出そうとする傾向が強い。巳の生命は自己の胸底に渦巻く情熱の炎を注ぐに値する仕事に就きたいと願って、それを信じて今日まで仕事をやっては来たものの、果たしてそれで良かったのかどうか、この仕事で社会に奉仕出来ているのか、あるいは自己の満足が得られるのかどうか、迷いや疑念が生じて来て、答えが見つからないままに煩悶している生命が圧倒的に多い。まさしく煩悩世界の住民である。
 
 物事の意味や価値とは自分自身で定めるものに非ず、自己の価値は自分では分からず、それは世の中の評価で定まるものであって、自分で評価すべきものではない。皆が口々に「ありがとう」と感謝の意を称してくれるならば、その仕事は決して無意義なものではなく、また自己の存在価値も感じられるというもの、周囲から良い評価が得られない原因は、人や社会からまだ認められていないという証明に他ならない。それは狭義では家庭内も一緒、伴侶や子供達から認められていないという状況は親としては失格を意味する。第6磁界は気体圏と液体圏の中間磁界に存在するが、やはり煩悩の域を出ておらず、物事の見方が主観的で客観性に欠ける。相手の立場や事情をちゃんと理解して上げられていないし、あくまでも自分が主人公であって、自分の尺度でものを考えてしまう。だから大社長や総理大臣にまで登り詰めても、死後の線香の数が足りない。自分が見積もるほど人や社会に対して有益なエネルギーを放っていないからである。一般に第6磁界は高等生物の位相が存在する動物磁界であり、比較的長い平均寿命を有する海の生物(クジラ類や海獣類)や大型鳥類(ツル)などが多い。その平均寿命は約40年である。
 
 
         ※ 〈一般的性質〉
 一般に巳の生命の者は表面上は淡白や明るさを装っているが、それはなるべく冷静に振る舞おうとしているだけの話であって、その内面は複雑な悩みを抱えて常に苦悶している。しかし、外見から観察する以上は、この生命は如何にも若者らしい情熱家であり、涙もろい人情家であって、そして感受性の強い感激屋である事に変わりは無い。まるでカラッとした気体の一面と、ネチャッとした液体の一面のその両方を具有している。感情に影響されやすく人情にほだされやすいという、いわゆる「深情け」的な傾向は液体気質に所以するもので、如何にも人間(六道凡夫)らしいが、ここにこの生命の重大な欠点があって、主観的な自我の呪縛から全然抜け出せていない。伴侶や子供を愛して家庭を守る事は嫌いではないが、際限の無い自己犠牲が心の負担となり、また伴侶の些細な言葉や、子供の我儘に振り回されて、家庭における自己の存在意味を見失い、希望の光を見失って、出口が見えない迷路の中へと迷い込んでしまう。そうした苦しみに耐えているから、NHKの「おしん」の如き番組を見ると、苦労話に共感して、もう涙が止まらなくなるのである。普段は知性のお面を被ってクールさを装っているが、時に鬱積した感情の圧力に耐え切れず、その憤懣(ふんまん)を一度に開放してしまう(核爆発)性癖を持っている。苦労を美化して賛美するのではなく、苦労を苦労として溜め込む事自体がナンセンス、それは未熟の証であって、物事が割り切れていないから苦労に感じるだけの話に過ぎない。
 
 巳の生命と言えば、善人とは全く異なる悪質な感情(ダーク・エモーション)を抱く生命もいる。そもそも巳は熱湯であり、直接触れば火傷はするし、閉じ込めれば水蒸気爆発を起こすという厄介なもの、世の中に善玉菌と悪玉菌がいる様に、巳の生命の中にも悪玉菌がいる。感情の底辺には「嫉妬」や「憎しみ」や「恨み」などの情念が渦巻いており、時にそうした情念を募らせて「怨念」にまで拡大させてしまう卑劣な輩もいる。一見すれば虫も殺さぬ様な好青年なのに、猜疑心が人一倍強く、特に報復の念が旺盛な生命は人を陥れる狡猾な計略家であって(嘘をついて人を騙す)、追い詰められると猟奇的な事件も引き起こし兼ねない危険な生命もいる。科学者なのに人の研究を妬んで、研究室に忍び込んでは大事な特許サンプルを盗み出したり、あるいは実験器具を壊して研究の続行を不能にしたり、時には大胆にも実験室に火を放って責任者の失脚を画策したりする場合もある。会社の人事部長なのに新人女性に邪(よこしま)な欲望を抱いて、仕事を意図的に失敗させて責任を覆い被せ、それを理由に手篭めにしてしまうとか、「まさか、あの人が」と驚く様な人物である場合が多い。女性でも、外国(フィリピン)の魔女学校に通って霊的な技術を習得し、相手を殺す様な呪文(例えばブードゥー)を唱えたり、あるいはサイキック攻撃を仕掛けて毎日苦しめるとか、ろくな事をしない連中もいる。巳の生命は基本的に紳士淑女なのに、そういう狡猾な犯罪を引き起こす輩がいるので注意が必要である。
 
 巳の生命のひたむきな奉仕精神や信仰心や家族愛や熱心な努力は素晴らしいと思うが、銭金が絡んで来ると大変シビアな側面も有しており、基本的に金には汚く、金の話になると途端に卑しくなって態度が急変する。一生懸命に精魂を費やして創作した作品なのに、鑑賞してくれる人がいるだけでも嬉しいと当初は感激していたのに、作品に値がついた途端に態度を豹変させて、それまで投資したエネルギー分の代価を要求し始める。世の人の為にと願って開発した発明品なのに、会社がその価値を認めてくれないと提訴して、育てて貰った恩を仇で返してまでも金に走る様を見れば、「ノーベル賞を貰ってもやっぱりただの六道凡夫に過ぎない」と納得せざるを得ない。名誉の肩書きよりも、現実的な地位(例えば大学教授など)か、もしくは現ナマが欲しいのがこの生命の特徴である。恥をかくぐらいなら「金など要らん」というのが辰の生命だが、金が手に入るなら「恥などかき捨てだ」と思うのが巳の生命、まことに浅ましい生命だと言わざるを得ない。人間はとかく青春期の人間の方が綺麗なものだが、壮年期の人間になるといやらしさが現れる。だが、巳の生命と言えども、精神修行を積んだ者はその限りでは無く、本能的に湧き上がる欲心を理性でコントロールしている人もいる。
 
 真面目に生きて人生の終盤を迎えた巳の生命の者がよく口にする言葉は、「俺は真面目に働いて子供達を育てて来た、祖先はそんな俺をよくやったと褒めてくれるだろうか」という事で、そういう話を何度か聞いた事がある。同じ巳の生命で、四人の男性が全く同じ意味の言葉を放ったので少し驚いたが、「そんな風に感じながら生きて来たんだ」と感心した反面、「あー、やっぱ六道凡夫だー」と感じた次第である。四人の男性はいずれも信心が固い真面目な生命であるが、最後の審判を待つ段階に来て、あの世の事が心配なのである。一見、謙虚な言葉で、慢心は無く蹲踞(そんきょ)の姿勢が窺えるが、裁きを待っている風な表現の背景には自信の無さと迷いが見て取れる。「つべこべ言わずに堂々と死を迎え入れろ、君はやるだけの事はやって来たのだろう?  人生の良し悪しはそもそも君が判断する事ではない、そういう女々しい言葉は口にするべきではない」と本音は言いたかったが、実際には伝えていない。最後の最後でも歯切れが悪く、自分を起点とした発想しかしておらず、物事の割り切りがさっぱり出来ていない。外側から自己を覗けてもいない事に、つまり井戸の底(地表)から宇宙を眺めているだけの未熟な生命である事に失望感は否めない。

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