〈陰陽輪廻の概念〉
古代中国では生命の輪廻を天体の運動に見出し、人間生命も同じメカニズムで推移すると考えました。彼らは生命輪廻を陰陽の概念で表し、それが陰陽の法則に基づいて規則正しく運動すると考えたのです。一つの作用(陰)が芽生え、その極点まで達すると、次にその反作用(陽)が芽生え次の極点まで達して輪廻すると考えました。夜の中に芽生えた昼が勢力を増す分、夜が減少していきやがて昼はその極点である真昼に達します。その極点を過ぎると今度は昼の中に夜が芽生えて、昼を押しのけて勢力を拡大し始め、やがてその夜は極点(深夜)に達し次の循環が始まるといった陰陽輪廻の概念です。
このような輪廻の概念は古代インドの釈迦説法でも説かれており、東洋思想には普通に存在する哲学概念です。有名な零(0)の概念とは、この輪廻循環の出発点を指しており、何もないという意味ではありません。
ではここで人間の生命輪廻を陰陽哲理で考えてみることにしましょう。
人間の成長において重要なのは心の成長であることは前にお話しした通りです。肉体は最初から人間として完成しており、成長とはただ大きくなるだけに過ぎませんし、25歳前後で成長は終わってしまいます。しかし心の成長はむしろそこからが本番といえるわけです。肉体(陰)と心(陽)の関係を陰陽輪廻で表現すると、肉体(陰)の中に芽生えた心(陽)がその勢力を徐々に増大していくと、その分肉体の勢力が減って占有比率が下がってきます。この陽化の比率は“具現率”という因果律に基づいて年齢と共に出現してきます。年を重ねて陰の比率が0%に至ると、自動的に陽の比率が100%となり肉体(陰)を失ったその段階がいわゆる“死”ということになります。陽化100%で死を迎えた人間は心だけの存在となり、個の存在を失い元の姿へと帰納し、実体のある実相行程(陰陽混合)に終わりを告げ、実体の無い虚相行程へと向かいます。
虚相行程では、実相行程とは反対に純陽の中に芽生えた陰がその存在比率を増大させ、陽は段々と陰化していきます。そして最終的には出発点である純陰の状態に戻ります。ちょっとわかりにくいかもしれませんが、実体があって目に見えるのは実相行程だけで、目には見えず実体の無いのが虚相行程ということです。
それでは陽化100%となって心だけの存在となった人間は、虚相行程において陰化する過程でどこに消えて行ってしまうのでしょうか?
〈生命輪廻の終着点〉
陽化100%となって心だけとなった人間ですが、その生命輪廻に終わりはありません。肉体を離れた生前の意識(霊=心)は地球磁場圏の位相に隠れ潜んだ状態のまま、太陽磁場圏(あの世=守護霊界)へと転写コピーされて新しい生命浄土へ転居していくのです。一方、転写が終わった元の地球磁場圏の位相はきれいに初期化されて、再び循環の途につき次の生命体の生命を奏でていくことになります。これは仏教で言うところの“成仏”であり、組織で言えば“昇格”というところでしょうか。
もちろん、全ての生命が成仏できるわけではありません。地上の人間に執着を持つ人は、そのまま地球磁場圏の位相から離れずに不成仏霊として居残ることとなります。
太陽磁場圏に転写された意識は、これまでよりも一回り大きな浄土でその意識を営むこととなります。そこで陽の芽吹きとして新たな成長の途につき、一回り大きな輪廻行程を歩んでいきます。そして太陽輪廻の回帰原点に至ると、今度は次の銀河磁場圏に転送されさらに大きな生命輪廻を続けていくことになるのです。このように人間の意識は縦の進化をしながら、次第に大規模な宇宙生命体の巨大意識へとなっていくこととなります。
このようにして先に死んだ祖先の心が成長し、その情報を子孫に伝えることで我々地球人の文化レベル(機根レベル)が徐々に進化していくことになります。もし人間が単に輪廻するだけの存在であったなら、地上の人間はいつまでたっても猿のままで、言葉すらも話せないままでしょう。我々はそうして気の遠くなるような長い時間をかけて育ててもらった存在なのです。自力で育ったなどと自惚れた考えは改めておきたいものです。
次回へ続く
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