〈食欲と性欲〉
ソクラテスは「己の無知を知る」ことが学問の始めであると説きましたが、考えて見れば「無知」ほど恐ろしいものはこの世には存在しません。医者が薬だとして出した毒薬は、知識のない民衆の殆ど全員が飲んでしまうでしょうし、また警察が指名手配した無実の人間は、一般市民の殆ど全員が犯罪者だと思いこんでしまうでしょう。それと同様に、単なる勘違いに過ぎないのに、科学者が正しいと認定すれば、現実に存在しない反応でも、その反応が実際に起こっているものと錯覚してしまいます。中世の封建時代、領主や教会の神父が魔女だと断定すれば、男性すら知らない初心な少女でも一夜で魔女になってしまうと言う盲目の暗黒時代を、我々は経験して来ました。しかし、人類の「無知さ加減」は今も昔もそんなに変わりません。「真実」を知らないから苦悩し常に問題が生じています。人間は「無知」を返上して「明るく」ならなければならないのです。
「無知」の盲目地獄の中で、手探り状態で進むよりも、一条の「明知」が照らせば障害を避けて通れるものです。古来より、古今東西には様々な賢人達が出現し、民衆を啓蒙して来ました。頭の上の部厚い無知の蓋枷(ふたかせ)を突き破って、明るい日差しを浴びる事こそ、人間にとって最高の功徳だと言えるかも知れません。その様な意味では、一条の「明知」(生命哲理 宇宙論のこと)を、この私に与えて下さった天上の報身(ほうじん)達に対して、「明るくして頂いて有難う御座います。これで迷わずに前進する事ができます」と御礼を述べたいと思います。生命にとって「明るく」して貰う事こそ、“全ての価値に優る”ものだと断言しても構わないでしょう。
さて、陰陽論を駆使して、人間の全欲望のルーツを突き詰めて考えて行くと、たった二つの本源的な欲望に別れます。それは「食欲(陰)」と「性欲(陽)」という二大欲望の事ですが、逆説的に表現すれば、これらの二大欲望から全ての欲望が派生して誕生して来たのであり、これらは人間のあらゆる欲望の原点的な形態と言えます。「欲望」が「生きる目的」と一体どんな因果関係にあるのか、いぶかしく感じる人もいるかも知れませんが、向学欲や知識欲と言ったものまでも“欲望の一種”に過ぎない事を知れば、欲望を正しく知る事に「生命の普遍命題」を解く鍵が存在する事は推察できると思います。心が発達する以前の生命段階では欲望が生きる為の原動力となります。
生命とは早い話が「磁場」の意味ですから、物理的に考察すれば、内向きの要求作用(陰)と外向きの要求作用(陽)に大別する事が出来ます。つまりベクトルの作用方向が自分(内)に向いているのか(向心系列欲望)、それとも相手(外)に向いているのか(遠心系列欲望)と言う話です。その明確な陰陽区分をちゃんと付けられなければ、物事の正しい分類など出来る筈も有りませんし、経験による人智だけで分類に挑めば、100人が100人必ずどこかで判断を誤り間違って分類してしまいます。
「食欲」に象徴される陰系列の欲望の特徴は、磁場のエネルギー本能として最初からもともと備わっているものであり、気の粒(食料)や情報(知識)を獲得するという本能的な傾向のものは皆、この陰系列の欲望の範疇に属します。人間は気の粒を捕獲しませんが、その代わりに食料や知識やお金や物品を欲しがり集めます。従って、食欲・知識欲・金銭欲・所有欲と言った欲望は陰系列の代表的な欲望種となります。これらの欲望の特徴は、それ自体に相手をどうこうしようする悪意作用は無く、ただ自分の為に「欲しがる」というだけのものです。無論、度が過ぎれば結果的に周囲に迷惑を及ぼす事になりますが、陰系列の欲望種は余り罪深く無いのが特色です。
それに対して、性欲に象徴される陽系列の特徴は、本能として最初から備わっているものではなく、後から生じて来る遠心系(外部作用系)の欲望種であり、必ず外部に矛先となる対象物もしくは対象者が必要となる欲望です。これは良くても悪くても相手に作用を及ぼす為に、周囲にとっては最も害悪な欲望となり得るものです。大量の派生種が存在しますが、成長の順番に代表格を列挙すれば、情欲・我欲・異性欲・虚勢欲・見栄欲・虚栄欲・財産欲・支配欲・権力欲・見識欲・名声欲・応仰欲などが上げられます。如何にも人間(沙中の生命)らしい欲望だと言わざるを得ません。
成長期の人間が性的な衝動を覚えて、異性を欲しいと純粋に感じる事は、陰の本能的な要求であり、それはお金や車を欲しがる事と何も変わらないものです。それ自体に悪意があるとは思われません。しかし、意中の相手を獲得独占したいが為に、格好を気取り体裁を囲って自己をアピールしたり、競争相手に嫉(ねた)んでそれを排除する様な行為を及ぶと、もはやこれは陽の異性欲(独占欲)の範疇、大人の汚い欲望に変じています。それが良いか悪いかは別問題として、自己の思惑の為に相手や周囲に影響を及ぼす故に、陽の欲望に変じていると解釈できます。
ゆっくりと眠りたいと言う睡眠欲は、別に人間でなくても生物ならば皆同じです。クジラは大洋の真ん中で腹を出して眠りますが、その行為を見て身勝手だとは誰も思いません。縁側で昼寝をしていたお爺ちゃんが孫に腹を立てている理由は、勿論睡眠を妨害されて眠れなかったからですが、夜も寝て昼も眠ると言う行為は些か自己本位、騒いでいる孫の方が罪深いとは思われません。睡眠を妨害されて怒ったお爺ちゃんの行為は我欲(自分の思い通りにしたい欲求)に基づくものであり、その欲望(我欲)は我侭な子供の欲望と大差が無いかも知れません。美しい女性とすれ違って、「こんな綺麗な女性と付き合えたらなあー」と思うのは、厳格に言えば「所有欲」を感じた事になりますが、それが罪であるとは誰も思いません。しかし、彼女と再び出逢いたいばかりに、尾行をしてその住所を確認すると言った行為に及んだ場合は、ストーカーの前兆行為であり、明らかに陽の欲望(占有欲)に基づいており、法的な規制に引っ掛かります。前者は店頭の果物や新車を見て、「この林檎が食べたいなあー」と食欲を感じる事や、「こんな高級な車に乗りたいなあー」と憧れを感じる事と何も変わらないものであり、それは大統領を見て、「俺もあんな偉い人物に成りたいなあー」と思う事と一緒です。
この様に、陰系列の欲望は欲望の一種であっても、他を巻き込む性質を持たない自然な内なる欲求であり、それは後から生じる陽系列の欲望の第一動機にはなれども、その欲求自体は責めることの出来ないものです。お金を使えば直ぐ無くなってしまうので、なるべく使わずに溜めていると言う「貯蓄欲」が法律の枠枷に引っ掛かるとは思えませんし、また俺は頭が悪く物を覚えられないので、この年齢でもまだ学校に通って勉強していると言う「学習意欲」が罪深い訳では有りません。無論、「貯蓄欲」が高じて「吝嗇(りんしょく)」に陥ってみたり、「学習欲」が高じて「見識」を見せびらかす様になれば、それは陽の欲望の芽生えであって、段々と罪深さを増して行く事になります。上流の透明な水が徐々に汚染されて行く様に、成長に伴って欲望も徐々に変化して陽化して行くものです。
重要な認識は、この世の万物万象を分析する際には、物事の流転潮流を頭に入れて解析するという事です。例えば、地震という自然現象を分析するのに、地球を静止状態にして解析を進めても本当の事は何も分かりません。地球は回転運動を起しながら日々膨張を続けており、その地球の運動を念頭に置かなければ、地震を誘発する根本原因をまさぐる事は出来ません。それは欲望の分類分析だって同じであって、生命成長を考慮して、欲望の元初の発生原因とその段階的な派生を念頭に入れなければ、正確な分類作業など出来ない相談です。生まれたばかりの赤ん坊が、性欲を感じたり、権力欲や財産欲を求めたりはしないものです。その理屈は、「生きる目的」にしても一緒の話です。それは年齢の違いや生命機根(分明度)の違いによって段階的に異なるものであり、心が未発達な赤ちゃんに「生き甲斐」や「人生の目的」と言った問題はどうでも良い話です。その様な高尚な悩みは、心の成長に伴って徐々に生じて来る問題であって、人生の目的など年齢によってコロコロ変わって当たり前だと言えましょう。しかし、万象が流転し変化して行く流動状態の中でも、死に至る直前の最終段階に於いて、結局「人は何の為に生きるのか」が問われます。貴方は一体何の為に、この宇宙に誕生して来たのでしょうか?
次回に続く
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