〈十二支概論(午・未)〉

  7) 午(うま)の生命
             ※ 磁界: 第7磁界(理性階)
             ※ 容量: 7cal
             ※ 分類: 空諦階中諦(気体階固体)
             ※ 人象: 熟年(熟年期)
             ※ 星座: 獅子宮(獅子座)
             ※ 月節: 7月(午月)
             ※ 時節: PM1時〜PM3時

        ※  〈磁場の特徴〉
 第7磁界とは地球磁場圏内部の外磁場に属する領域であり、内磁場(第6磁界)を取り囲む最初の内層に相当する磁界である。ベクトルの向きは外向きで、重力圏(求心力)とは正反対の磁力圏(遠心力)を呈する離心場であって、渦巻に乗じて軌道運動を行っていない限り、この空間に存在するあらゆる物質は地表に落下する事なく一様に外界へと直線的に移動させられていく(放射状拡散)。磁界の高度半径は約14万kmで、内磁場容積のほぼ3倍の大きさである。第6磁場圏を通り過ぎたロケットは第7磁界に入ると突然加速度的にその速度を速めていくのが特徴である。明白な物質が存在するのが第3磁界までの中諦階(固体階)、その周囲を庇護膜の様に取り巻いているのが第6磁界までの仮諦階(液体階)、そして仮諦階の周囲を柔らかく包み込んでいるのが空諦階(気体階)であり、その一番下の下層領域がこの第7磁界である。この磁界より上に存在する物質は衛星の「月」のみであって、月以外は如何なる物質も存在せず、真空空間の純然たるアストラル世界となる。第7磁界の中身は気の渦流とその渦磁場から構成されるが、磁場の骨格自体は外側の第7テトラ体を基盤としており、その力学骨格の中を心回路の端末動帯(ヌクヒブイ)が激しく上下運動しているが、人間や動物の生命位相は磁場内部に整然と配列しており、月ロケットはそうした磁場や力場や位相群の中を突き抜けて飛んでいく。この磁界には目に見える物質は何も存在しないが、理性階の「心の場」の入り口であって、地上の生命が「判断」や「計算」や「比較」や「類推」などを行う所の、つまり頭を使う所の、最も頻繁に利用している磁界である。肉体とは直結しない「心の領域」であって、煩悩世界(下六道界: ストレス磁界)を脱した精神世界(上六道界: リラックス磁界)の始まりと言えるのがこの磁界の特徴である。

         ※  〈午の意味〉
 午の語源は「忤(ご)もしくは迕(ご)」であり、基本的に「逆(さから)う」とか「違(たが)う」といった意味である。これまでの方向とは真逆である意味合いであり、一般的には成長の極繁に達した植物が成長の足を止めて、その本分を果たすべく実り(完成)の準備に入ったとか、それまで東側から照りつけていた午前の日差しが逆となり、今度は西向きの午後の日差しになったとか、また、それまでは重力に牽引されていたのに、それが止まって反対に磁力に押されて加速したとか、あるいはそれまでは庇護される立場だったのに、今度は反対に庇護する立場になったとか、いわゆる午とは方向が逆転するといった意味である。誕生から次の誕生までのサイクル(輪廻)行程を考えれば、生命の行程とは生道行程(成長生産行程)と退道行程(破壊分解行程)の二つに大きく分かれて、準備段階とも言える前半(陰)の下六道行程と、完成段階とも言える後半(陽)の上六道行程という両行程のうち、生命そのものの意味と価値は全て後半の上六道行程に存在する事は述べるまでも無い。子供が子供のままで居続けても意味が無く、大人に成長して初めて人間としての本分を果たす事が出来る。午とは生命成長の第7段階を指す表意言語であり、季節は7月、時節は午後(1時〜3時)、植物で言えば個体として完成した木が「結実」の為の準備作業に入った段階を指しており、元より動物の「馬」の意味ではない。人間で言えば、やっと完成して押しも押されもしない一人前の大人(自立生命: 50歳代)に成った意味であって、後半生の始まりの段階を指している。易学上では午は陽化具現率が60%を超えた状態(70%未満)を意味しており、また仏法十二因縁では、午は「有(ゆう)」の段階と称され、人生に於いても活動の極点にある真昼間、最も活躍出来る有意義な生命段階と言われている。西洋占星術では黄道十二星座のうち、第7番目に出現する星を獅子宮と称しており、高揚した気高き精神と、権力で旺盛を極める星とされている。ちなみに第7磁界の天体神は古事記では「活杙尊(いくぐひのみこと)」と呼ばれている。

          ※  〈磁界の質〉
 第7磁界の特徴は「人間の人間たる由縁」がこの磁界にあって、満40歳までにここに心動帯を入力出来なければ六道劣化者となり、最終的には上位磁界を全く使用出来ない動物生命と成り果ててしまうという、人間と動物を分ける「ボーダーライン」が存在する事である。原始人(猿)が勇気を振り絞って山火事の現場に踏み込んで火種を手に入れてくる様な、理性に裏付けされた行動力と判断力はこの磁界に入力しなければ得られないものであり、その様な意味で、理性階の第一段階とは人間になる為の(動物を卒業する為の)関門であると言っても構わない。仮に自己の生命位相が第7磁界に存在する「午の生命」の者でも、心動帯(ヌクヒブイ)を第7磁界に同会させられるとは限らず、年齢の壁や、N単位数の発達度や、環境の違いなどによって入力出来ないまま生涯を終えてしまう者も中にはいる。この磁界に入力出来る動物は、高齢の賢い猿か、もしくは賢い象ぐらいであり、殆ど人間が独占使用している専用磁界である。人間の実年齢が満24歳を超えてくると、若い方でも六道界を脱してこの磁界へ同会を果たす者もいる。その同会を電磁的な出力で支えているのが分脳のN単位数(ニューロン単位数)であり、若くて優秀な方でも最低1400本以上の分脳出力が必要となる。この磁界に同会出来るという事は、理性力を使用出来るという事であり、物事を比較分類して客観的な自己判断が出来るという意味である。一般的に満40歳までに分脳N単位を1600本以上に増やしていないと、大脳アンテナの電磁力に不足して「六道劣化」する可能性が高い。理性階の三つの磁界(午未申)が全く使えないと、心が成長せずに逆に退化していくのである(子供に戻る)。

 「六道劣化問題」は人間界では単なる「認知症患者」として扱われているが、人間を育てる側の神界にとっては大問題であり、特に龍神島民族に関しては六道劣化を防ぐ為に、日本人6000万人に対して「インプラント神」を入植した事は承知の通り、物事の善悪や、自然界の現象や、社会の事象を自分の頭で思考出来る優秀な生命を作り出す事が神々に与えられた使命だった。六道劣化者の多くがその少年期に原因があって、一番勉強しなければならない思春期(一番N単位数が増える)の間に落ち零れた者が劣化してしまう事は疑う余地も無い。義務教育なのに「嫌なら学校へ行かなくても良いよ」などと親が言っている場合ではない。そもそも知性階(卯辰巳の磁界)とは学習して物事を認知して記憶する主観的な磁界であり、思考を巡らすのではなく「物思い」に耽る磁界である。それに対して理性階とは物事を分析して考える磁界であり、色々と思考を巡らせて判断を導く客観的な磁界である。両者の大きな違いは、知性階に入力中は体を動かせるのに対して、理性階に入力した場合は手や足をピクリとも動かせないという際立った特徴である。一般に、本能階と知性階は体を動かす為の磁界だが、理性階と精神階は体を動かせない磁界であり、人間は高い領域で思考に入ると手足が止まってしまうのである。また、これは巷の例え話であるが、本能階は「腹」で物を考えて、知性階は「胸」で物を考える、また、理性階は「頭」で物を考えて、精神階は「頭の上」で物を考えると言われている。

 動物と人間を分ける「分水嶺磁界」、それが第7磁界の特徴であるが、磁界そのものの質は磁力系のリラックス磁界であって、ここに心動帯を入力して長時間に渡る思考をしてもあまり疲れる事は無く(ストレスが高じない)、むしろ夢中になって時間を忘れてしまう程の集中磁界である。六道劣化者は不眠症と相場が決まっており、心動帯を高い磁場領域まで上げられない為に様々な不安が渦巻いてリラックスする事自体が習慣的に出来ない。常に心の目線を下位の磁界に落としており、その強烈なストレスが神経質症を高じせしめて「鬱病」へと陥っていく。まるで動物の如く神経が過敏で、僅かな物音でも目が覚めてしまうのである。最終的には分脳電位が物理的に大脳のアンテナ機能を支えられない理由から、大脳の退化を招いて「アルツハイマー収縮」を起こしていく。その様な意味では思春期の教育に成功するや否やは、その子が将来「廃人」になるか否かの「分かれ道」だと言っても良いだろう。所で、十二支には上限と下限が存在し、180度正反対の相手が存在する。それと同様に十二磁界にも上限層と下限層が存在しており、これらは180度正反対の形質を示すのに、「なぜか」両者には互換性がある。本能階の「子丑寅」の上限は「午未申」という理性階に存在し、また、知性階の「卯辰巳」の上限は「酉戌亥」という精神階に存在する。ちなみに子の上限は午であり、また午の下限は子である事から、第1磁界と第7磁界は真逆の関連性で結ばれている。

 子刻がAM1時〜AM3時なのに対して、午刻はPM1時〜PM3時であり、夜と昼が逆転した時間帯であるが、子の磁界(第1磁界)に作用する求心加速度(落下加速度)と、午の磁界(第7磁界)に働く離心加速度は全く一緒であり、ただベクトルの向きが正反対なだけである。また、子の磁界の気の圧縮度と午の磁界の気の拡散度は値が一緒であるが、プラスとマイナスの違いがある。この様な上限と下限の不思議な関係は「子―午」の関係のみならず、「丑―未」「寅―申」「卯―酉」「辰―戌」「巳―亥」の関係も同じである。上限と下限の関係はその性質も真逆である理由から、子の生命の者は午の生命の者とは全く真逆な特徴を示す。例えば、第7磁界はいわゆる行動力に富んだ作用力の強い磁界であり、また、液体(巳の磁界)を脱した気体領域の一番熱い気体分子(水蒸気)の磁界である理由から、この磁界の生命は目立つ事や表舞台に立つ事が基本的に好きな、まるでオーブンの如き熱い生命であって、自己顕示欲(注目を浴びたい欲)が大変旺盛であり、何につけても自分が中心でリーダーシップを取らないと気が済まないという性質を備えている。この午の性質と全く正反対なのが子の生命であって、作用力を殆ど示せないガンガラガンの氷は、目立つ事や表面に出る事が大嫌いな冷めたい生命であり、矢面に立たねばならないリーダーには絶対になりたくない(影の存在を好む)という性質なのである。午の生命が権力や権威を好んで人の面倒を買って出るのに対して、そういうお金(実利)にならない面倒な事は子の生命は嫌いなのである。さて、生まれ年の十二支が「午」である者は、生まれつきの生粋の「午の生命」であり、無意識的な我(自分自身)が午であって、幼少期から本能的に午の行動を取るの対して、生まれ日の十二支が「午」である者は意識や心そのものが午であって、満32歳の具現率年齢に達すると、年支の影響を押し退けて午の基質を台頭させてくる。

           ※  〈一般的な性質〉
 午の生命は一見理知的で折り目正しい「キリッ」とした硬骨漢に見えるが、まるで血液型のO型の様な「夏型気質」の持ち主であり、外側の怜悧な雰囲気に比べて中身の方が熱い生命である。明るく開放的な個性を有し、「場の中心人物」でいたがる性癖は午の生命の典型的な基質であって、人や場に対する配慮はあるものの、遠慮は無い性格で、基本的に直球玉的な対処法で人と接する。例えば、「私を愛しているんでしょう、だったら鼻の下を伸ばして他の女性をコソコソ見ないで頂戴」。こんな感じである。彼氏の助平顔(づら)が「癪(しゃく)」に触ったので、ストレートパンチをお見舞いしたのである。とかく、この生命は自立心が旺盛で、親や他人の力を借りる事を好まず、独力で困難に立ち向かって目的を達しようとする気概が強い。負けず嫌いなその性格を支えているのが「午のプライド」なのである。そのプライドを傷つけられると「カチン」と来て、烈火の如く直情的に発奮(はっぷん)する傾向が強い。まるで「瞬間湯沸かし器」の様な短腹(たんぱら)な性分はこの生命の欠点とも言えるが、怒りの矛先が喉元を過ぎ去ると突然冷静になって、何事も無かった様に機嫌を元に戻す事から、周囲は余計に唖然としてしまう。真っ赤になって憤慨したかと思ったら、その数分後には機嫌よくニコニコしているという、要するに己の鬱憤(うっぷん)を外に吐き出してスッキリしただけの話、周囲にとっては傍(はた)迷惑この上もないが、午の生命のナルシスティックな一人芝居には呆れてしまう。親分肌で面倒見が良く、人に振る舞いたがるが、お天気屋で一人よがりの忠告好きでは、付き合う方も大変である。

 この生命は聡明な理論家であり、企画する事が大好きで、大きな理想を抱いてはいわゆる「百年の大計」を志すが、実力が伴わず、いつも理想だけで終わってしまう。今一世の中の構図が読み取れず、何事も人を頼らず独力で成し遂げようとするから逆に失敗が多い。実力主義もいい加減にしないと、「運」を味方にしなければ物事の達成は難しく、「僥倖」や「恩恵」や「助力」といった天運は人を介してあたわるもので、この世は実力だけではアスリートだって戦えない世界なのである。真面目な努力家であって、馬車馬の様に良く働く生命だが、苦労の末に一応の目的を達成しても、人を当てに出来ない許容量の乏しさと、自己を譲らない頑固な性格が災いして、折角築き上げた物を自ら水泡に帰しめてしまう。また、成功すれば鼻を高くして自惚れて、権力を握れば威張り散らす所が大人物には成り難い所である(人が着いて来ない)。午の生命とは熟年期(50歳代)の人間の事を指すが、迷いの壮年期(40歳代)を卒業し、やっと自分の足で自分流に人生を歩める様になった段階を指している。自分流の独自企画も結構だが、まだ青臭さが多少残留しており、おだてられて舞い上がる様では人間修行が足りていない。何事もアグレッシブで積極果敢に取り組むのはこの生命の大きな美点だし、また、責任感が強く律儀に義務を全うするのも長所であるが、この生命に欠けているものは、我を削って相手に自己を譲る事である(自己犠牲を嫌がる)。

 午の磁界は「気体階」の中の「固体領域」に分類されるが、水が沸騰して高温の水蒸気になった状態であると表現が出来る。熱い水蒸気とは完全に拡散してしまう前の「群(湯気)」の状態であり、だから気体の中の固体として表現されている。気体分子であっても、まだ自己の形状をしっかり保っているという段階であり、そのせいなのか、午の生命は気体的な性質ばかりではなく、子の生命や卯の生命や酉の生命と共通する固体的な性質も具有している。固体的な性質とは本能的に自己の形状を保持しようとするという頑(かたく)なな性癖である。つまり、自分を崩してまでも他に譲るという事がなかなか出来ない性分の事である。例えば、会社や組織に染まって自己本来の色を変えられてしまうのは嫌であり、また、我の存在をないがしろにされて雑に扱われるのも嫌であって、「俺は俺だ」と必要以上に我を意識して我に固執する事である。それは自己の存在、自己の業績、自己の役職、自己の仕事、自己の会社、自己の家庭、自己のやり方にも及んでおり、自分の人生だから他人に介入されたくないし、自分のテリトリーだから誰にも侵略されたくないという保守的な傾向性の強さの事である。その強い保守性が物事を乱雑にしておけない几帳面な性格を醸し出し(固体分子は整然とした結晶構造を取る)、また、フォーマルな正服志向(崩したファッションを好まない)にも現れるが、「自己を譲れない」という絶対的な本能は、良い面では高い自主性(私は誰でもなくこの私自身)や、強い主体性(この私がやるのだから)の要因となっており、それは結局人を頼らない「自立心」や、自己流を貫き通す「独立心」にも通じている。

 しかし、「自己を譲れない」という頑なな原始本能は人間社会に於いてはマイナス要素(弊害)も多く、過度な自己主張や自己執着や自己本位は人間関係を損ねてしまう。物の形状はいつか崩れて形を失ってしまうもの、本来の原型を保ち続ける事は難しい。この世は「水(人間の事)」が固体の氷のままでは居続けられない世界であり、新しい要素を次々と取り込んで自色を変化させていかないと進歩(進化)の行程から振り落とされてしまう。ちなみに、固体人間は固体の特質を持ち、また液体人間は液体の特質を有し、更に気体人間は気体の特質を備えているものだが、それらは天賦の与えられた形質であって、それぞれに長所と欠点が存在するが、後天的に決して変えられない基質ではない。そもそも、最終的には我(個の意識)を解いて全体に帰納していくのが人間生命の本分(成仏)、自己への執着も程々にしておきたいものだが、こうした形を維持しようとする固体人間の執着度は一般に「子>卯>午>酉」という順位で強くなる。固体人間の中では、高い作用力や、強い影響力や、積極果敢な意欲を示す「午の生命」であるが、固体としての共通形質を削ぎ落として、偏らない理想的な自己を形成をして頂きたいものである。尚、午の生命とは「気体人間」の中の「固体人間」であり、いわゆる気体属固体科の生命である。気体人間(午未申)の中では固体的な性質を具有する唯一の生命と言える。

 

 

 

   8) 「未(ひつじ)」の生命
               ※ 磁界: 第8磁界(理性階)
               ※ 容量: 8cal
               ※ 分類: 空諦階仮諦(気体階液体)
               ※ 人象: 初老(初老期)
               ※ 星座: 処女宮(乙女座)
               ※ 月節: 8月(未月)
               ※ 時節: PM3時〜PM5時

         ※ 〈磁場の特徴〉
 第8磁界とは地球磁場圏の外磁場の第2層にあたり、直ぐ下の第1層(午の磁界)と共に、離心層(磁力圏)を司る中堅の領域であり、如何なる物質も存在しない純然たるアストラル層域である。磁界の高度半径は約25万kmに及び、衛星の月までの距離の約半分を占めている。目に見える物体は何も存在しないが、アストラル物質としては第8テトラ力体と、その内部には気の渦巻である第8渦層(かそう)と、それが囲う第8磁界と、そして一群の位相帯が存在している。第8渦層の端は約16日間の周期で回転しており、もしこの軌道上に月が在れば、その月周期は28日間では無く16日間という計算になる。第8磁界は純然たる心回路の磁界、ここには生物の意識が存在し、そして生物が自己の心動帯を同会させる精神領域であって、そもそも物質世界の人間や機械にウロチョロされては困る領域なのである。神界の許可も無く、地上の人間達が勝手に探査ロケットを飛ばすのは迷惑千万な行為だと言えよう。第8磁界は第7磁界とは異なり、物事の判別や判断を軽く付ける磁界ではない。ここは分析して答えを導き出す重厚な磁界であり、理性階領域の中核的な存在であって、物事を探求し、比較分類して、それなりの結論を導き出す場所柄である。従って、第8磁界は「研究者の磁界」とも言われるが、この場所に心動帯を入力しなければ、物事を深く分析思考する事自体が出来ない。理性階領域(午未申)の中で最もロジカルな頭脳を使うのがこの第8磁界であるが、これよりもう一つ深い洞察力や識別力を必要とする専門的な思考場があって、それは申の磁界(第9磁界)であり、その中でも「創作磁界」という突出した優秀な領域がある。いわゆる人間頭脳の最高峰の場所だが、第8磁界に入力出来なければ、本命の創作磁界にも入力が出来ないという相関関係がある。

         ※ 〈未の意味〉
 未の語源は「昧(まい)」であり「暗い」意味であるが、「未」の漢字本来の意味は「いまだに(まだ〜)」であり、午の語源(忤: さからう)と同様に否定的な表現法で用いられる言語である。斜陽で暗くなってきたが、まだ明るい時間帯が「未刻」と表現され、また、年を重ねて老人になってきたが、その一歩手前のまだ元気な段階は「初老期(未期)」と呼ばれて、また、木々がその成長の足を完全に止めても、まだ枯れてはいない段階であり、実らせた種子を手放す状態を「未(ひつじ)」と表現している。植物成長にとって「午」とは種子を育(はぐく)む段階を意味するが、「未」とは実らせた種子を手放す段階であって、新しい生命の種を次世に残すという「木の本分」を遂げる段階を指している。種子とは次世の種(たね)、次世はまだ来ていないので「未来」と表現されており、その様な意味では、未は「未来の生」を産み出す理由から、生命輪廻の循環(小循環)基点であると解釈されている。承知の様に、老木が朽ち果てて、地上から完全にその姿を消してしまう大輪廻と、死する前に種を落として次世代の生を導く再生(増殖)輪廻という二種類の輪廻が有り、未は後者(小輪廻)の回帰点なのである。大変難しい輪廻哲理だが、毎日の連鎖輪廻を考えると、太陽が沈んでも別に一日(一生)が終わった訳ではない。陽が照っている時間帯を活動期間の「生」の段階とすれば、陽が落ちた時間帯は「死」の段階である。斜陽の未刻とは事実上の活動期間の収束を意味しており、「生」の最終段階だと表現が出来る。夕刻の5時までには一日の計は終わっており、後の時間帯は次の生(翌日)の為の準備期間であって、一日はまだ収束していないものの、閉店時間の一応のピリオドが打たれる段階だという話である。未とは生命行程の第8段階を指す表意言語であり、季節は8月(未月)、時節はPM3時〜PM5時、植物で言えば果実を実らせる段階であって、もとより動物の羊の意味ではない。易学上では未は陽化具現率が70%を超えた状態(80%未満)を意味しており、また、仏法十二因縁では未は「生(しょう)」の段階と称されて、次世の生を奏でる生命段階とされている。西洋占星術では黄道十二星座のうち8番目に出現する星を「処女宮」と称しており、次の未来を生み出す種子(処女)であると解釈されている。ちなみに、第8磁界の天体神は古事記では「角杙尊(つのぐひのみこと)と呼ばれている。

         ※ 〈磁界の質〉
 第8磁界は集めた知識を分析して、類似性や傾向性や統計性を解析し、何かの法則や原理を見出して回答を導き出すという高度な演算回路である理由から、事実上はほぼ訓練された人間しか使えない磁界であり、その意識層はこの磁界にも存在するものの、動物の猿や象やクジラでもこの磁界の特性をフル活用出来る生物は人間以外に他にいない。人間でも年端も行かない若い方には入力が難しいし、また、実年齢を重ねても、頭を使う訓練をしていない者には活用は難しい。というのも、心動帯(ヌクヒブイ)を広げて第8磁界(内部は12層に分かれている)に同期させても、今度は内部の小磁界(二次磁界)の二次動帯を稼働させて動かす必要があり、また、その内部の三次動帯や、更にその内部の四次動帯を細かく操作出来なければ思考解析など出来ない芸当だからである。小さい時分から「頭」を使う、つまり、二次動帯などの内部の小動帯を動かす訓練を積んでいないと、そもそも理論的な思考など出来ない相談だという話である。原始人が、使っている棒切れの先端を尖らして武器に変えたり、あるいは粘土に焼きを入れて土器を作り出すのは第7磁界の小磁界応用の範囲内で出来る芸当だが、経験と学習で、船足の早い帆船を作り出したり、あるいは養蚕や綿花の繊維を織り込んで、それを染色してカラーの衣類を作り出したり、はたまた平等院などの高度な建築物を築く芸当は第8磁界の小磁界応用のなせる技だと言える。こうした惑星磁場圏の心回路をフル活用する為には、大脳の発達が無ければ不可能であって、分脳の電磁的な発達(N単位の増大)がオーブ核を中心としたアストラル12アンテナの出力の命を握っており、若い時期からの頭脳鍛錬が必要である。

 所で、午未申といった三つの理性階層は一段階上の精神階層(酉戌亥)と力学的に結ばれており、理性階の磁場をフル活用出来れば自然に上位の精神磁界と共鳴融合して「解脱」が可能となる。解脱する為には精神磁界から出発する必要があるが、解脱(同会)のメカニズムには3本の路線があって、一つは「午―酉解脱」、もう一つは「未―戌解脱」、そして最後が「申―亥解脱」という3種類である。解脱(同会=覚醒)とは惑星磁場を越えた上位の天体磁場(太陽系や銀河系など)の方で心を営むという離れ業の事であるが、昔から難しい事の様に聞こえるが、決して難しい話ではない。午―酉解脱とは、最低第7磁界を使える者は酉の領域から解脱が可能であり、また、最低第8磁界を使える者は「未―戌路線」で解脱が可能、そして第9磁界を使える者は「申―亥路線」で解脱が可能となる。要するに、理性階のいずれかを使える様になれば、後はテクニック次第で解脱が可能だという話である。理性階からは直接解脱が出来ない故に、上位の三つの精神階層と結ばれた状態で覚醒に至るという手法がある。精神階の3層とは「酉の磁界(眠りの磁界)」と「戌の磁界(記憶消去磁界)」と「亥の磁界(完全消滅磁界)」であり、通常の生命が心動帯を直接入力する事自体が困難な磁界である。そこで、心動帯は使用出来ない為に、位相内意識を精神階へ伝搬させて融合同会を図る方法がある。位相内意識とは早い話が人間の「イメージ」の事であり、自分自身が地球磁場圏を通り越して銀河磁場圏に行ったつもりの想像が抱ければ(描ければ)それで良いのである。無論、この手法は六道劣化者には出来ない芸当の為に、まずは六道界から脱出して第7磁界に同会する必要がある。

 第8磁界は研究者が食べる事も寝る事も忘れて研究に没頭出来る理性階の真ん中の磁界であり、気が散らず、時間感覚も無く、ストレスも溜まらない集中磁界であって、その居心地は大変宜しい。いわゆる閉じ籠りお宅の様な場であり、体の運動は止まった状態だが、頭だけが異常に冴えており、次々と思考を巡らせていく。もし、新しい法則や原理や数式を発見しようものなら、アドレナリンが分泌されて、「あーでも無いこーでも無い」と、一晩中考え続けて疲れ知らずのまま徹夜をしてしまう。そんな磁界である事から、ここから目線を下げて現実世界に戻ると、一挙に疲労と眠気が襲ってくる。午未申の理性階の特徴は、これらの磁界に心動帯を入力させると、手足の運動がおろそかとなり、その間は体はピクリとも動かせない状態に陥る。従って、車の運転の際中にここの磁界を使用する事は自殺行為に等しい。上六道界の6個の磁界は肉体を操作する磁界ではなく、心動帯を動かして精神を営む(頭脳を使う)磁界であり、肉体操作と心操作という力学的な作用を両立させる事は極めて難しい。感覚器官などの肉体を使う場合は下六道界に目線を落とす必要がある。ただし例外があって、第9磁界(申)と第10磁界(酉)の間に存在する「創作磁界」という特別な領域だけは、ここに心動帯を入力したまま(思考しながら)、僅かに手足を動かす事が出来る。画家や作家や陶芸家や作曲家などは目を使い、思考しながら腕を動かしている。

 創作磁界は特別な領域だが、基本的に高い領域に心を入力していたら、地上の肉体操作に誤差が生じてしまう。未の磁界と地表の距離は約25万kmも離れている。そこから突然地上の感覚器を使用するとなると、コンマ何秒かの時間はどうしても物理的に要してしまう。この領域に心を同会させて運転していたら、車外の光景を目で見ていても、実際は可視認知が全く成立しておらず、それは目が見えていない事と等しい。運転中の理性階入力は交通事故の危険性が高い理由から、絶対にやめて頂きたいものである。早い話が、一旦車のハンドルを握ったら、難しい思考をしたら駄目だという話である。所で、未の下限は丑であり、第8磁界と地表の第2磁界とは上限と下限の関係性にある。従って、磁場の物理的な性質が正反対であり、また、未の生命(第8磁界に位相がある方)と丑の生命(第2磁界に位相がある方)の性格も正反対である。還暦を迎える年代の未の生命と、誕生間もない赤ちゃんの丑の生命、未刻(PM3時〜PM5時)と丑刻(AM3時〜AM5時)、理性階域と本能階域、磁力界域と重力界域、どれを見ても正反対だが、唯一共通しているのが両者が液体人間であるという事であり、未は気体属の液体生命、それに対して丑は固体属の液体生命である。液体人間の共通形質とはその「流動形質」と「溶媒形質」であって、固体にもなれず気体にもなれないというハッキリしない中途半端な現れ方である。これから暗くなる段階(宵)と、これから明るくなる段階(明け)では正反対であるが、「生(活動期)」の収束期と発現期という相対的な段階の共通点は、どちらも不活性であり、日陰的な印象が否めない事である。

         ※ 〈一般的な性質〉
 未の生命(生まれ日が未=第8磁界に位相のある方)だから第8磁界に無条件に必ずしも入力出来るとは限らないが、それなりの年齢を経てそれなりの経験と学習を積んできた未の生命の多くはこの磁界への入力は果たしており、頻繁に使用している。深い思考をして分析する事が大好きな学者肌の生命であるが、一日の多くの時間を思考に費やしてしまう事から、端から見れば「動き」の絶対量に乏しく、どうしても地味で不活性な老いぼれ老人に見えてしまう。ロダンの「考える人」を見る度に「お前は未なのか」と思ってしまうが、100年間思考を巡らせた所で1cmの成長も無いのがこの世の人間の常、考えるなとは言わないが「物事の道理をちゃんと勉強してから考えろ」と言いたい。一方、未年に誕生した生命は無意識的な自我そのものが未であり、満10歳なのに羊(ひつじ)臭く、遠慮深くまた慎み深く、我(が)を抑えて、まるで隠居老人の如き振る舞いをする。午の生命は火傷する程の高熱の水蒸気であるが(外界への作用力が高い)、一方、未の生命はいまだに熱い水蒸気であっても、分散している最中の水蒸気であり、危険な水蒸気ではない(外界への作用力が薄い)。午と比較すると、未は大人しく、所謂「お利口ちゃん」の生命であるが、その最大の特徴は自己の内的な完成にあくせくしている生命であって、その分、どうしても対外的には目立たない印象を与える。しかし、人間社会にとって午と未の生命とは必要べからざる人材であって、どちらも用途が大変多い生命である。個人的な感想を言わせて貰えば、午の生命とは原子No.7の窒素原子(N: ニトロ)であり、また、未の生命とは原子No.8の酸素原子(O: オキシ)である。炭素や水素という材料を有機分子として組み立てるのは窒素と酸素であり、分子骨格の特異性を醸し出す窒素原子の巧妙と、また、分子結合の要となる酸素原子の妙技が有機社会を支えている。無論、大気組成も窒素と酸素が占めている。

 一般に、未の男性は内気で女々(めめ)しく、引っこみ思案の愚痴男(ぐちお)であり、対外的には典型的な内弁慶の外仏タイプであるが、基本的にはナルシストであり、一人壺中(こちゅう)の酒を飲んでは移り変わる世の中の事象や宇宙の森羅万象に思いを巡らして自己満足しているという、まるで須弥山(しゅみせん)から下界を見下ろしている「仙人」の如き浮世離れした生命である。高島易風の表現を借りれば、「閑雲野鶴の風月に詩趣をもらして赤貧の中にも一種壺中の快楽を貪り得る運命」と書かれているが、そんな自己満足だけの男に生涯を捧げる女性は現代人にはいないと思われる。未の生命と言えば貧乏の象徴の様に扱われてきたが、財力がある場合は人によっては外に出るタイプも居て、家庭の事など顧みず、大勢の仲間や部下を引き連れて酒やご馳走を振舞っては菩薩顔している親分肌の生命もいる。基本的には男性も女性も一緒だが、女性は勝気で無口、内面には譲れない「自尊心」と「プライド」を秘めており、面と向かっては言わないものの、日頃の文句や不満や批判を鬱積させている者が多い。時折、溜まった鬱憤を核爆弾の様に爆発させるが、理性が邪魔して取り乱す事は少ない。第8磁界を使える者は、好きな事には没頭して取り組む為に、一芸に優れた才覚を有する者が多いが、もともと実行力が乏しいので、その能力を世間に開花させてくれる助力者が現れないと形にはならない。未の生命にとって、良き伴侶や協力者に恵まれる否かは大問題、相手次第ではただの愚痴男で人生が終わってしまう。研究内容の良し悪しは別問題として、ノーベル賞受賞者の多くがこの生命であり、特に学術部門に対する貢献度が高い典型的なインテリ生命である。

 未の生命は液体属の因縁を多分に受け継いでおり、粘性の高い流動的(形が定まらない)な気質と、様々な知識を取り込んで身を肥やしていく溶媒性などを持ち合わせており、この液体性質は「丑>辰>未>戌」の順番で強く現れる。これは液体形質の共通性質であるが、液体は蒸発して形を失う事を極端に恐れており、自己の内容物を外に出す事を嫌がる。この性質は自己の思いや感情や本音を言外に発露する事が苦手だと言う意味であり、未の生命も例外ではなく、自分の本心を言葉に変換して相手に伝える事が上手ではない。おそらく本心そのものが固まっておらず、その都度その都度流動的に変化していて、一体どれが自分の意とする物なのか定まっていないのだろうと推察出来る。「相手は君の事は好きだと言っている、して君の気持ちはどうなの?」と聞かれても、スムーズな返答が出来ないのである。「じゃあ、嫌いなんだね?」と聞くと、「嫌いではない」と回答してくるので、「君は自分が好きか嫌いかの決定も出来ないのか」と人格を疑われてしまう。決断や決定に愚図つく、あるいは自己の気持ちさえも整理が出来ていない、はたまた総結論をぼかして明確にしない、そうした液体人間の優柔不断な粘着性は「人間失格」にも値する。難しく考える必要はどこにも無く、また見栄を張って格好をつける必要も無い。好きか嫌いかの判断ぐらい直感に従って即座に反応しても構わないのである。とかく未の生命は頭(心)ばかり使って、体の声を聞いていない。

 この生命の欠点は、野卑(やひ)な遠慮と、粗忽(そこつ)な偏屈であり、「いやいや、自分はそんな大層な人間じゃありませんから、何なりとご質問して下さい」と腰低く遠慮しておいて、突然「そういう趣旨の質問ならば、私は退席させてもらいます」と、憮然とした態度で公開討論会の場から出ていくという「へそ曲がり」振りである。小物を装って大人物の風体(ふうてい)を公に見せびらかすという偏屈老人的な素行には、やはり「どこかおかしくないか」と人格を疑ってしまう。人の栄耀栄華を妬んで、自己の業績を鼻に掛け、無能な者を馬鹿扱いするならば、そんな鼻持ちならない生命が人の上に立てる訳もなく、未の生命のそうした嫌らしい気質は自ら封印しなければならない。午の生命と未の生命という理性階領域の生命は、仏法で言う所の「二乗の生命」に相当し、自惚れ、慢心、増上慢の匂いを漂わせる生命であって、精神世界の入り口(駆け出し)に位置する生命である。早い話が、完成以前の未熟な生命段階である事から、更なる精神修行に精進して頂きたいものである。ちなみに、三つの理性階の判断力の違いは、午は判別力、未は類別力、申は分別力と言われるが、理性階より上の精神階の判断力は「識別力」と呼ばれており、これは宇宙真理から振り下ろしてくる判断力の事である。判別力や類別力や分別力とは真理を模索する遠心的(演繹的)な判断力であるが、識別力とは逆に真理を体得した者が行う求心的(帰納的)な判断力の事であり、宇宙の最高峰の判断力の事である。

 

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