人は何の為に生きる?(6)

五つの判断力(五識)

 宇宙とは桜の木であり、生物とは桜の花びらだと言って、それで納得できる人間が一体どれほど居るでしょうか? しかし、植物を本当に良く知っている人ならば“なるほど”と思うかも知れません。動物の感覚神経が手足に集中している様に、植物の感覚センサーは主に枝葉に集中しています。なまじかの科学知識を持つ人間ならば、「植物に感覚神経は無い筈だ」と言うと思いますが、そんな事はありません。葉一枚一枚が高性能の立派なセンサーの役割を果しており、それは“おじぎ草”や“食虫花”を見て貰えば一目瞭然です。植物はその全体(植物球体)が中央センサーであるばかりか、特に鋭敏な部分センサー(葉のこと)を大量に持ち、外界のあらゆる情報を集めているのです。
無論、植物と言っても一生物に変わりはなく、その生命球体を操作する意識の当体は上空の地球磁場圏に存在し、その磁場位相(植物位相帯)は地表から上空高度約3000m付近まで広がっています。これは植物の意識層と呼ばれる階域ですが、個々の植物は皆、この磁場位相と連絡しており、その全体意識もそこに存在します。当然、それより上空は大脳アンテナを備えた小動物の意識層であり、その磁場より上空では植物は自然成長しません。山脈の頂上で植物が自生しない理由は、気温や土壌菌の問題以前の「問題」があるからだと言えます。
さて、目に見える形質を取り払って、磁場という本質だけで植物の生態を考察すれば、小さな磁場センサーを統括する中央磁場センサーが存在すると言うのが植物の肉体です。その構図はコンピューターの端末機(パソコン)とその情報連絡を統括する大型計算機の関係と一緒です。植物の場合は更に、その肉体を統括するフレーム磁場(心のこと)が存在しますが、最近ではコンピューター界にも大容量の中央フレーム計算機が登場し全体統括を引き受けています。
この様な「場」の観点から宇宙を眺めれば、宇宙そのものが超大な情報を集積する能力を備えたフレーム・コンピューターだと表現できるのであって、それに対して我々生物とは詳細な情報を集めて本体に送信する「高性能のセンサー・ロボット」だと言えます。宇宙的な規模から考えれば、地球や太陽や銀河の磁場圏など単なる中継コンピューターに過ぎないのかも知れません。つまり、宇宙を「桜の木」とすれば、生物とはやはりその「花びら」や「葉」に各当するものだと言える訳です。
ならば、宇宙にとって我々人間の使命とは一体何でしょうか? 端末機の役割は正確な情報を本体に送信する事であり、枝葉が本体に外界の情報を送る事によって、本体はその情報を分析し、どうすべきかを決定しているのです。例えば、外部センサーが雨を感知したら、根に指令を送って大量の毛細根を伸ばし、速やかに水分を吸収する準備をすると言った具合です。宇宙が一体何の為に人間を創造し、それに一体何をして貰いたいのか、正しく表現すれば、宇宙は何の為に人間にその意識の一端を吹き込むのか、その最大の理由がこの情報集積に有ります。
「エッ、 たったそれだけの話?」と貴方は思うかも知れませんが、これが一番重要な事なのです。貴方の意識は宇宙の化身であり、その全体意識の一端を形取るものです。貴方が今「宇宙とは一体何?」と考えているのならば、宇宙自身もそう考えているのです。「俺は一体何なのだ」、「俺はどうやって誕生しこの先どうなるのだ」その知りたいと願う内なる悲痛な叫び声を貴方は感じないのでしょうか?
桜の木を映し出す大きな鏡が存在すれば、自分がどの様な形態をしているのか納得できると思いますが、原則的に自己の姿を自分で見られないのが万物の宿命です。もし、人間がこの世にたった一人しか存在しなかったら、自分が人間である事も気付かなければ、また背が低い方なのか、太っている方なのか、綺麗な容姿なのか、まるで分からないものです。この世はたった一人では自分で自分を認識する事が出来ない世界なのです。それは植物も一緒であり、それが故に外部センサーの方から、客観的に自己を見つめようします。宇宙の意図はそこに存在します。
自分が何者か分からない宇宙は人間に意識を宿して、そこから客観的に自己を見つめているのです。だからこそ人間は「我を知りたい」と痛切に思い、宇宙の諸現象のあらゆる謎解きをして森羅万象を知りたいと願うのです。人類の大きな勘違いは「万能なる神」という人間模様を呈する架空の創造主を造り上げてしまった事です。「万能なる神」とは現実に存在するものでは無く、それはこれから人間が成長して行く「到達点」に過ぎないのです。確かに原始宇宙を奏でる創造主の当体意識(宇宙の統括意識)は実際に存在するものですが、それは今世の宇宙開闢(ビック・バン)と共に粉々に砕け散って、そのバラバラになった意識の一端を拾って生命が誕生して来るのです。不思議なことに、破壊は次の創造を産みだすものです。
今この宇宙には宗教で論じられる様な「万能神」など居ないことを、そして人間とはそれ自身がいずれ神に成長する為に、つまり創造主の当体意識を再現する目的で、創造されたことを知って欲しいと思います。従って、人類はただ神の救済を待つのではなく、自力で未来に至る道を切り開き、自力で無知を払拭して、自力で大道を歩み成長しなければならないのです。生死の輪廻を超越した(世代を超えた)【心の進化】こそ人間(宇宙生命体)に課せられた究極的な「使命=生きる目的」と言えるでしょう。
「人生の目的」を見失っている貴方に言いたい事は、個の意識に執着せずに、自己の心(生命)の深淵に潜む「宇宙の全体意識」に目覚めなさいと言うことです。単なる人間(猿)で生きれば、苦悩に喘いで徒に躊躇するだけの話ですが、我(われ)が宇宙である事に目覚めれば、何者にも左右されない堂々とした精神境涯を築けるばかりか、未来を一点に見据えた有意義な人生を送って、生を謳歌し生きる喜びを享受できるものです。別に、やり残したと後悔する必要は有りません。貴方が全てやってしまったら、後世の者の仕事が無くなってしまいます。人間が完全完成(万能神)するのは遠い未来の話、自分がある程度成長したら、次の世代の成長を導くのが、我々大人の義務なのですから。

宇宙意識を再現する心(生命)とは、肉体に憑依して自己の存在をRAM磁場で客観的に認知した「無知な天体意識」の事です。RAM磁場には潜在記憶が無く、如何なる生物も知識や経験を一つ一つ学習して成長して行きます。しかし、RAM磁場とは本体(地球磁場位相)と結合しているとは言え所詮「肉体の磁場」の意味、全ての判断作用は外ロムである磁場位相の方で営まれています。その磁場位相に定位置は存在せず、用途に応じて人間は瞬間瞬間その入力対象の磁場ソフトを変化させています。自己の意識を煩悩階ソフト(知性階もしくは感情階とも言う)に入力すれば、如何にも人間らしい判断能力と感情の発露が身に付きますが、そこで意識を囲っている限り欲望の制御が難しい階域でもあって、それが故に煩悩階と呼ばれています。

 

その人間の磁場位相(意識を営む小磁界)が今、地球磁場圏のどのソフト領域に同会しているのかで、本能的に反応したり、感情的に対応したり、理性的に振舞ったり、あるいは達観してみたり、生命の現れた方がまるで異なります。普段は理性的な人間であっても、相手や状況次第では露骨に感情を表す場合もあり、いつ同会ソフトを変化させるか分かりません。しかし、このソフトの使い分けには年齢制限が存在し、年を取った人間が低い軌道の磁場ソフトを長時間使用する(目線を下げる)行為は、位相の収縮(集中)の都合上大変難しく、原則的にいつまでも怒っては居られません。感情的な自我形成は神経を磨耗させるので、年寄りはなるべく楽チンなリラックス磁界である理性階ソフトを好む傾向にあります。年齢を刻むと自然に理性階ソフトを使用できる様になるのが、人間の最大の特徴と言えますが、当然この広域ソフト帯の選択は優秀な大脳アンテナを持つ生物の特権だと言っても構わないでしょう。
では、人間に取って一番大切な判断力(ロジック=頭脳性能)の向上は、どの様な成長段階を経由するものなのでしょうか? 無論、これは同会先の磁場ソフトの軌道の高低とも関る話であり、高い軌道になればなる程(膨張すればする程)、その分位相磁界の体積容量が増加し複雑な思考判断が可能となって、高次の哲理解析が出来る様になります。当然、年齢成長が未熟な若い生命体にとっては、物事の真偽を見極める「洞察力」や真理を解析する「識別力」は雲上の能力と言えるのであって、高い磁場ソフトに自己の位相を同会させる事自体が物理的に許されておりません。これは能力訓練ではどうにもならない壁が存在すると言う話であって、天才など存在しないと言う話です。

 釈迦仏法では生物の成長段階を五段階別に分類して、色(しき)―受(じゅ)―想(そう)―行(ぎょう)―識(しき)という五陰世間(五行差)に分けています。これは人間の成長段階を表すと同時に広義の意味では生物種の進化段階を表現したもので、陰から陽へと流転する物事すべてに当てはまる本質的なものです。生命論でも、生命体の判断能力の段階的な発現様相を五行分類しており、区別力(水)―類別力(金)―判別力(土)―分別力(火)―識別力(木)という五段階の要素で表現しています。
人間の子供が最初に発揮する能力は“区別力”であり、これは物事や事象の「程度」を直感的に判断する最も原始的な能力と言えます。赤ちゃんには明暗や上下や寒暖や甘辛の区別という単純な区分けしか出来ず、それは生物以前の物体(粒子)が極平均的に有する能力であって、極めて肉体的かつ本能的なものです。磁場ソフトで表現すれば、地球表層の第2磁層に各当し、そこは大脳を持たない下等生物や物質の意識層を司る磁界領域だと言えます。赤ちゃんの心の領域は地上高度が数百mの軌道付近に存在し、それは高等植物の意識層よりも更に低い菌類の意識層で自己を形成しています。
それに対して、幼年期から少年期にかけて発揮して来る能力は比較対象ができる“類別力”であり、これは一群の中から目的の物だけを選択できる能力のことです。赤ちゃんが食べ物とその容器の類別が付く(違いが分かる)までには大した時間は掛かりませんが、子供が文字や言葉の類別を学習して、テレビ・ニュースの類別が出来る様になるには、結構な時間が掛かります。それが政治ニュースなのか、それとも単なる事件ニュースなのかの判断力は、学習して知識を積まなければ類別できません。

 

人は何の為に生きる?(5)

宇宙と生命

 宇宙の本源的な存在物である重水素ガス、その均一均等な単体ガスが集約されて数多(あまた)の物質が誕生して来ることは承知の通りです。我々生物の体も、浮遊岩石も、また惑星や太陽という天体も、目に見える宇宙物質は皆あまねく共通の水素ガスから構成されています。たった四種の基礎素粒子(陽子、中性子、陰電子、陽電子)から成り立つ重水素ガスを母源基盤として、無量大数とも言える万物種が創造される物質界の神秘は、たった四種の基礎有機物(アデニン、グワニン、チミン、シトシン)から成り立つ遺伝子(DNA)を母源基盤として、無量大数とも言えるタンパク種が創造される生物界の神秘と全く一緒です。その原点は極めて単純なのに、“一体なぜ”かくも宇宙は複雑に分派し多様な様相を呈しているのでしょうか?
巨視的な識別分類を行えば、全ての物質は始めの母源物質から誕生し、分派成長すると考えられ、素粒子単位―原子単位―分子単位―化合物単位(無機物)―基礎有機物単位―有機物―細胞単位―組織単位―生物という「物質進化」の行程を歩んでいるものと思われます。物量的な分析をすれば、元初の素粒子単位が一番多く、高等になればなる程その絶対量が希少になる事から、食物連鎖の三角ピラミッドを彷彿とさせます。この「物質進化」の潮流とは、生物進化のフレーム基盤を成すものであり、その底流に従って生物は「劣」から「優」へと進化して来たものと考えられます。これは物質進化の潮流が生物進化を誘発していると言う話ですが、それ以前の問題として、宇宙全体がミクロ(陰)からマクロ(陽)へ向って膨張運動(陽化運動)を起しており、万物の運動があらかじめ定められた方向性(陰から陽へ向う)を持つものだと言う話です。
極小の素粒子にも、また一塊の岩石にも、あるいは一人の人間や人類全体にも、定められた方向が存在し、個々の都合とは無関係に強制的かつ必然的に、とある方向へと流されます。過去(陰)から未来(陽)へ向かって時間が一方的に流れる様に、あるいは子供(陰)から老人(陽)へ向かって人生が一方的に進む様に、生物も物質も戻ることの出来ない一方通行の片道行程(陽化行程)を歩んでいます。その全体潮流の存在認識が甘ければ、進むべき方向性を見失って軽挙妄動の世界を築いてしまいます。
宇宙空間に浮遊する一塊の岩石(無機物)をどんなに丹念に定量分析した所で、岩石は岩石、どこの岩石もほぼ一緒であり、それ以上の事は何も分かりません。しかし、岩石がマグマの冷却から誕生し、そのマグマは星のコアから誕生すると言う、岩石成長の経緯を知っていれば、それが惑星爆発の残骸であるのか、それとも宇宙空間に発生した岩石渦系のチビ・コアが冷えて誕生したものなのか、別角度からの考察が可能となります。そして岩石が有機物へと進化する方向性を孕(はら)んだものだと認識しておれば、その主成分である酸化ケイ素の分子骨格やケイ素そのものの原子核骨格と電子軌道が、有機物(炭素)のそれと極めて酷似している事に気が付くでしょう。ならば有機物の構成素材因子(CO2やCH4やNH3)がどこからどうして誕生して来るのか見当が付く筈です。
物事を解析するに当たって、科学者の様に表面的な情報をいくら集めた所で、何の問題も解決しません。それと同様に、人生の意味や価値を知りたいと願って、様々な生活情報を入手した所で、何の役にも立たないものです。重要な事は、全体潮流の認識であり、今現在“自分は人間をやっている”が、その昔は猿をしており、更にその昔には爬虫類や魚類をやって、またそれ以前は下等な菌類や単なる物質をやっていた事を認識する事でありましょう。例え人間の遺伝子を持っていた所で、いきなり人間には進化できず、万物は段階を経て成長して来るのです。その成長途上に自分が在る事を知れば、個の存在価値などどうでも良い話です。

 さて、進化の潮流の話からガラリと豹変しますが、およそ物を創り出す(生み出す)と言う作業を考えれば、最初に創作者の何かの「意図」が必ず必要となります。それは電化製品の創作でも、絵画や陶磁器の創作でも、あるいは子供を創るのでも同じ事であって、宇宙と言っても例外では有りません。その様な意味では、創造主は必ず存在するものですが、それが俗に言われる神なのかどうかは分かりませんが、少なくても宇宙そのものが「生物」を創造したいと言う「意図」を持っているから、その意図に従って物質進化が起こり、生物が誕生して来ることは確かな事です。宇宙は一体どの様な手段で生物を創造し、そしてそれに一体何を望んでいるのでしょうか?
芸術家が食べる目的の為にただ絵を描いているとは思えません。ちゃんと食べたいのなら一般の仕事をした方がより確実です。一枚の絵画に入魂する彼等の思いは、創造主のそれと同じであり、最終的な完成品を目指して生涯絵を書き続けます。描いた作品の内、その多くは不満足な未完成品であり、たった一枚の完成品を生み出す為に、その途上生産物を延々と書き続けます。これで満足という一品をなかなか創作できない彼等の宿命的な悩みと言えます。これは現在のプラズマ・テレビを生み出すまでに、一体どれほどの技術者が頭を悩まし、不満足な途上生産物(旧型のテレビ)をどれほど生産して来た事か、それと一緒の話だと思われます。
宇宙(創造主)が一人の人間の様な明確な意識を持っているとは思えませんが、少なくてもここが一つの巨大な「生命生産工場」であって、大量の生命を創造しては、篩(ふるい)にかけて選定している作業場である事ぐらいは、誰にでも想像が付くと思われます。果して我々地球人が宇宙の本願了受に相応しい理想の創造物なのかどうか、その行末の結果は遠い未来でなければ分かりません。高等であれ下等であれ、我々は未だ進化の途上段階に在って、地球磁場圏すら自力で出た経験がない人間以前の胎児宇宙人、成長して完成して見ないと結果は分かりません。いずれにしても、我々は心の広域ソフト帯をフル活用できる高等生命体の一種、科学の発達は不十分ながら、宇宙や生命を理解でき得る優れた感受能力を潜在させている事は確かなことです。

 ところで、人間を物質(肉体)の観点から見て優秀か否かを判断して来ましたが、もっと具体的に言及すれば、上空の心と直結する大脳アンテナの潜在能力が優秀か否かで勝負が決まってしまいます。宇宙生物は別に大脳で考えている訳ではありませんが、アンテナの発達が不十分だと、心の広域ソフト帯を任意に選択することが難しく、低い磁場軌道の単純なソフトしか使用できません。その状態では言語を使用する事も、また文字を判読する事すら難しく、理論的な考察が全く出来ません。理性階ソフトに入力できなければ、知識を吸収しても客観的な判断能力など身に付かないものです。
しかし、優秀な大脳アンテナを有していても、年齢成長がその使用レベルに到達していなかったり、また思考訓練が全くなされていないと、折角の潜在能力も意味を失ってしまいます。別に理性階ソフトを使用しなくても、一般的な思考(知性階レベル)は普通に出来ることから、必要と感じない人間も居ます。その結果、優秀な人間はどこまでも優秀になるが、馬鹿な人間はどこまで行っても馬鹿という能力格差を生んでしまいます。人類の全体的なレベル・アップを目指すならば、大脳をフル活用する為の一貫した教育体制(能力開発システム)が必要となります。
承知の様に、百科事典を丸ごと暗記した所で、その吸収した知識を活用できなければ何の意味も無く、単なる物識博士(クイズ王)で終わってしまいます。理性階ソフトとはメモリーする場所の意では無く、ロジックを営むソフトであって、頭脳を縦横無尽に操作して判断する場所と言えます。人間の頭脳の良し悪しは、メモリー容量ではなくロジック容量で定まるものであり、それはコンピューター性能の良し悪しと全く一緒です。人の理論や仮説をただ棒暗記するならば、それはコピーしている行為と同じ、自分にとって何の進歩も有りません。重要な事は、自己の理論を自力で組み立てられるかどうかであって、その為には理性階ソフトを使用しなければならないのです。

 

 

 さて、宇宙生命にとって、大脳アンテナの発達の程度はその星によって異なりますし、またその生物の成長度(進化度)によっても異なります。しかし、地の因縁物(肉体)には多少の差は有っても、天の因縁物(心)は極めて平等なものです。どの惑星にも磁場の「四階十二層」は存在し、理性階ソフトも精神階ソフトもちゃんと備わっています。それを言えば、肉体の形態だって我々とほぼ一緒であり、同じ材料(有機物)を使って酷似した惑星環境(水の惑星)の中で進化の末に創造される為に、同じタンパク骨格の類似したDNAを備えた有酸素系の肉体を有しています。無論、眼もあれば指もあって、同じ様な大脳アンテナを備えており、SF小説に登場して来る様なケイ素人間とか昆虫人間と言ったとんでもない生命体など存在する訳も有りません。文明や科学の発達度には、多少の差はあっても、潜在能力はどの異星人も似た様なものと言えます。
例え異星人であっても、考える事は地球人とほぼ一緒、「宇宙とは何か」また「生命とは何か」に奥悩し、生と死を見つめて「人は何の為に生きるのか」と苦渋の人生を送っている筈です。その普遍の永久命題に対して、ある程度の答えが出せる様になる為には、宇宙の一般常識的な科学知識を取得して「無知」を卒業していなければならないのです。生命の根幹も知らずして、その命題に正しい解答が導けるとはとても思えません。宇宙の成り立ちも知らない人類に、宇宙を語れる訳もなく、また宇宙を知らなければ生命の本質を語れる訳も無いのです。
宇宙とは別に地球の外側に存在するものではありません。この地球自身が他ならぬ宇宙そのものである事を知って欲しいと思います。そもそも宇宙には在って地球に無い物など存在しません。これはこの地球を正しくちゃんと理解すれば、宇宙全体が見えると言う意味であり、物事の原理はマクロもミクロも必ず一緒です。我々の肉体こそが宇宙そのものであり、それはむしろ本物の宇宙よりも複雑かも知れません。一人の人間の潜在能力は巨大意識(磁場の縦界層)として大宇宙に通じており、その能力の僅か数十パーセントを発揮しただけでも、今の人類全体の能力の総和よりも遥かに凌ぐものなのです。人間にそんな能力が在るとは思わずに、自己の本来の姿にも目覚められないまま、地上の猿を演じているのが、地球人だと言っても構わないでしょう。他ならぬ自分自身が宇宙である事を知って欲しいと思います。

我々人間の正体とは、猿の肉体に憑依しそれを操作している所の「高等磁気生命体」と言うのが真実の姿です。誕生直後の猿の赤ちゃんを磁化して「仮の姿(人間)」を宿しますが、我々はもともと肉体を持たない宇宙の「高等霊体」なのです。その「意識霊体」が人間の子供として目覚め成長の途に着き、徐々に我本来の姿に気が付いて行くと言うのがシナリオです。死とは肉体の死に過ぎなく、我々の生命とは死んで消滅してしまう様な性質のものではないのです。
猿の肉体と合体する理由は、優秀な肉体(感覚センサー)を手に入れる為であり、より正確で確実な情報を入手して自分自身が成長する為です。宇宙の「意識霊体」はいわば虚像であり、自分で自分の姿を見る事が出来ません。そこで生物を介して生物の目から客観的に自己を見つめると言う手法を使います。今、貴方の子供が産声を上げて誕生した事を考えて見ましょう。宇宙意識の一端が貴方の子供に宿り、その子はうっすらと目を開けて、“ここはどこだ”、“俺は誰だ”と考えているのです。それは宇宙自身が目を開いて、我に目覚めた事になるのです。子供は親の姿を認知して自分がこの親の子である事を知りますが、それは宇宙意識の一端が目を開いたに過ぎず、確かにその肉体は親が遺伝的に産んだものでも、その子の心は天から授かったものなのです。親はその子が自分の子供では無いことを知らねばなりません。無論、親も宇宙であれば、子も宇宙ですが。
宇宙とは、例えるならば「桜の木」だと言えます。そして生物とは「桜の花びら」に各当します。桜は「桜の木」よりも「桜の花びら」に象徴され、それが受粉して次世の桜の木(宇宙)を産み出します。遠視眼的に考察すれば、結局「桜の木」も「桜の花びら」も桜である事に変わりはなく、桜の成長物語の全ては桜自身が自作自演しているものです。我々人間とは一輪の「桜の花びら」に過ぎないのに、「自己の存在意義」が在るとか無いとか騒ぎ立てています。まるで自己(花びら)と宇宙(木)が別種な存在物かの様です。少々、自己顕示欲の発達した花びらに言いたい事は、「自分が一体何者であるのか、その本当の姿に気が付きなさい」と言う事です。小さな花びらとして一生(開花期間の一週間)を過ごすのか、それとも自己が全体=桜(宇宙)である事に目覚めて、桜の木の生涯(宇宙開闢期間)を歩むのか、貴方ならどちらを選択するでしょうか?

 

次回に続く

 

人は何の為に生きる?(4)

食欲と性欲

 ソクラテスは「己の無知を知る」ことが学問の始めであると説きましたが、考えて見れば「無知」ほど恐ろしいものはこの世には存在しません。医者が薬だとして出した毒薬は、知識のない民衆の殆ど全員が飲んでしまうでしょうし、また警察が指名手配した無実の人間は、一般市民の殆ど全員が犯罪者だと思いこんでしまうでしょう。それと同様に、単なる勘違いに過ぎないのに、科学者が正しいと認定すれば、現実に存在しない反応でも、その反応が実際に起こっているものと錯覚してしまいます。中世の封建時代、領主や教会の神父が魔女だと断定すれば、男性すら知らない初心な少女でも一夜で魔女になってしまうと言う盲目の暗黒時代を、我々は経験して来ました。しかし、人類の「無知さ加減」は今も昔もそんなに変わりません。「真実」を知らないから苦悩し常に問題が生じています。人間は「無知」を返上して「明るく」ならなければならないのです。
「無知」の盲目地獄の中で、手探り状態で進むよりも、一条の「明知」が照らせば障害を避けて通れるものです。古来より、古今東西には様々な賢人達が出現し、民衆を啓蒙して来ました。頭の上の部厚い無知の蓋枷(ふたかせ)を突き破って、明るい日差しを浴びる事こそ、人間にとって最高の功徳だと言えるかも知れません。その様な意味では、一条の「明知」(生命哲理 宇宙論のこと)を、この私に与えて下さった天上の報身(ほうじん)達に対して、「明るくして頂いて有難う御座います。これで迷わずに前進する事ができます」と御礼を述べたいと思います。生命にとって「明るく」して貰う事こそ、“全ての価値に優る”ものだと断言しても構わないでしょう。

さて、陰陽論を駆使して、人間の全欲望のルーツを突き詰めて考えて行くと、たった二つの本源的な欲望に別れます。それは「食欲(陰)」と「性欲(陽)」という二大欲望の事ですが、逆説的に表現すれば、これらの二大欲望から全ての欲望が派生して誕生して来たのであり、これらは人間のあらゆる欲望の原点的な形態と言えます。「欲望」が「生きる目的」と一体どんな因果関係にあるのか、いぶかしく感じる人もいるかも知れませんが、向学欲や知識欲と言ったものまでも“欲望の一種”に過ぎない事を知れば、欲望を正しく知る事に「生命の普遍命題」を解く鍵が存在する事は推察できると思います。心が発達する以前の生命段階では欲望が生きる為の原動力となります。
 生命とは早い話が「磁場」の意味ですから、物理的に考察すれば、内向きの要求作用(陰)と外向きの要求作用(陽)に大別する事が出来ます。つまりベクトルの作用方向が自分(内)に向いているのか(向心系列欲望)、それとも相手(外)に向いているのか(遠心系列欲望)と言う話です。その明確な陰陽区分をちゃんと付けられなければ、物事の正しい分類など出来る筈も有りませんし、経験による人智だけで分類に挑めば、100人が100人必ずどこかで判断を誤り間違って分類してしまいます。
「食欲」に象徴される陰系列の欲望の特徴は、磁場のエネルギー本能として最初からもともと備わっているものであり、気の粒(食料)や情報(知識)を獲得するという本能的な傾向のものは皆、この陰系列の欲望の範疇に属します。人間は気の粒を捕獲しませんが、その代わりに食料や知識やお金や物品を欲しがり集めます。従って、食欲・知識欲・金銭欲・所有欲と言った欲望は陰系列の代表的な欲望種となります。これらの欲望の特徴は、それ自体に相手をどうこうしようする悪意作用は無く、ただ自分の為に「欲しがる」というだけのものです。無論、度が過ぎれば結果的に周囲に迷惑を及ぼす事になりますが、陰系列の欲望種は余り罪深く無いのが特色です。
それに対して、性欲に象徴される陽系列の特徴は、本能として最初から備わっているものではなく、後から生じて来る遠心系(外部作用系)の欲望種であり、必ず外部に矛先となる対象物もしくは対象者が必要となる欲望です。これは良くても悪くても相手に作用を及ぼす為に、周囲にとっては最も害悪な欲望となり得るものです。大量の派生種が存在しますが、成長の順番に代表格を列挙すれば、情欲・我欲・異性欲・虚勢欲・見栄欲・虚栄欲・財産欲・支配欲・権力欲・見識欲・名声欲・応仰欲などが上げられます。如何にも人間(沙中の生命)らしい欲望だと言わざるを得ません。

 成長期の人間が性的な衝動を覚えて、異性を欲しいと純粋に感じる事は、陰の本能的な要求であり、それはお金や車を欲しがる事と何も変わらないものです。それ自体に悪意があるとは思われません。しかし、意中の相手を獲得独占したいが為に、格好を気取り体裁を囲って自己をアピールしたり、競争相手に嫉(ねた)んでそれを排除する様な行為を及ぶと、もはやこれは陽の異性欲(独占欲)の範疇、大人の汚い欲望に変じています。それが良いか悪いかは別問題として、自己の思惑の為に相手や周囲に影響を及ぼす故に、陽の欲望に変じていると解釈できます。
ゆっくりと眠りたいと言う睡眠欲は、別に人間でなくても生物ならば皆同じです。クジラは大洋の真ん中で腹を出して眠りますが、その行為を見て身勝手だとは誰も思いません。縁側で昼寝をしていたお爺ちゃんが孫に腹を立てている理由は、勿論睡眠を妨害されて眠れなかったからですが、夜も寝て昼も眠ると言う行為は些か自己本位、騒いでいる孫の方が罪深いとは思われません。睡眠を妨害されて怒ったお爺ちゃんの行為は我欲(自分の思い通りにしたい欲求)に基づくものであり、その欲望(我欲)は我侭な子供の欲望と大差が無いかも知れません。
美しい女性とすれ違って、「こんな綺麗な女性と付き合えたらなあー」と思うのは、厳格に言えば「所有欲」を感じた事になりますが、それが罪であるとは誰も思いません。しかし、彼女と再び出逢いたいばかりに、尾行をしてその住所を確認すると言った行為に及んだ場合は、ストーカーの前兆行為であり、明らかに陽の欲望(占有欲)に基づいており、法的な規制に引っ掛かります。前者は店頭の果物や新車を見て、「この林檎が食べたいなあー」と食欲を感じる事や、「こんな高級な車に乗りたいなあー」と憧れを感じる事と何も変わらないものであり、それは大統領を見て、「俺もあんな偉い人物に成りたいなあー」と思う事と一緒です。
この様に、陰系列の欲望は欲望の一種であっても、他を巻き込む性質を持たない自然な内なる欲求であり、それは後から生じる陽系列の欲望の第一動機にはなれども、その欲求自体は責めることの出来ないものです。お金を使えば直ぐ無くなってしまうので、なるべく使わずに溜めていると言う「貯蓄欲」が法律の枠枷に引っ掛かるとは思えませんし、また俺は頭が悪く物を覚えられないので、この年齢でもまだ学校に通って勉強していると言う「学習意欲」が罪深い訳では有りません。無論、「貯蓄欲」が高じて「吝嗇(りんしょく)」に陥ってみたり、「学習欲」が高じて「見識」を見せびらかす様になれば、それは陽の欲望の芽生えであって、段々と罪深さを増して行く事になります。上流の透明な水が徐々に汚染されて行く様に、成長に伴って欲望も徐々に変化して陽化して行くものです。

 重要な認識は、この世の万物万象を分析する際には、物事の流転潮流を頭に入れて解析するという事です。例えば、地震という自然現象を分析するのに、地球を静止状態にして解析を進めても本当の事は何も分かりません。地球は回転運動を起しながら日々膨張を続けており、その地球の運動を念頭に置かなければ、地震を誘発する根本原因をまさぐる事は出来ません。それは欲望の分類分析だって同じであって、生命成長を考慮して、欲望の元初の発生原因とその段階的な派生を念頭に入れなければ、正確な分類作業など出来ない相談です。生まれたばかりの赤ん坊が、性欲を感じたり、権力欲や財産欲を求めたりはしないものです。
その理屈は、「生きる目的」にしても一緒の話です。それは年齢の違いや生命機根(分明度)の違いによって段階的に異なるものであり、心が未発達な赤ちゃんに「生き甲斐」や「人生の目的」と言った問題はどうでも良い話です。その様な高尚な悩みは、心の成長に伴って徐々に生じて来る問題であって、人生の目的など年齢によってコロコロ変わって当たり前だと言えましょう。しかし、万象が流転し変化して行く流動状態の中でも、死に至る直前の最終段階に於いて、結局「人は何の為に生きるのか」が問われます。貴方は一体何の為に、この宇宙に誕生して来たのでしょうか?

 

次回に続く

 

人は何の為に生きる?(3)

凍えねば分からない太陽の恩恵(生と死)

 終戦直後の焼け野原の東京では、川べりに茂る雑草を争って食べたらしく、隅田川には草木の一本の影すら無くなったと聞きます。そんな究極の飢餓状態は、現在の贅沢な日本国では想像し難い事ですが、世界では特別珍しい事では有りません。承知の様に、餓死する人間の数は一向に減る気配が無く、心は生きたいと願っているのに、食べ物が無くて餓死寸前に追い込まれるという事態は余りにも惨(むご)たらしくゾッとするほど恐ろしい話です。そんな世界情勢の中、カレーライスの中の人参が嫌いだと泣き叫ぶ我が子を見て、この子にも一度飢えを経験させなければ“食べ物”の有難味が生涯分からないのではないかと不安に感じてしまいます。現在では、そんな乱暴な躾をする親は少なくなりましたが、昔の親はそうやって育てて来たものです。今の日本では、そんな事をすれば親が殺人未遂で訴えられてしまいます。
 人間の生命は心も体も磁場で構成されており、変幻自在に形を変化させる複雑な磁場位相(心)と、単独の単磁場である生体磁場(肉体=生命球体)に別れているものの、両者は互いに物を記憶する磁場である事に変わりは無く、どちらも原則的に物を覚えて成長するものです。教えなければ(情報を与えねば)、磁場は覚える事は無く決して成長しません。心の記憶形式にはRAM記憶とROM記憶(深層記憶)が存在し、後者の場合は表面上忘却できる為に必ずしも宛てには出来ませんが、体の記憶形式は全てRAM記憶な為に、深層記憶に仕舞い込むと言った芸当は出来なく、忘却作用が無い分極めて実践的なものです。頭(心)で覚えるよりも体に覚えさせた方がより確実です。動物も人間も、頭で覚える事と、体で覚える事を分けて扱っており、子育てで一番重要なのは先ず体の感覚で力の配分や加減や程度やバランスを覚えさせる事です。
 ストーブやヤカンにアイロンに触ればどうなるのかを体感させる事は勿論、転べば痛い事や、氷や雪が冷たい事など、あるいは空腹が高じればどうなるのか、高所から落下したり、叩かれる痛みがどんなものか、一つ一つ覚えて貰う必要があります。敢えて経験させなければ、分からないのだから致し方も有りません。車に跳ねられたら、一体どの様な事態になるのか、少々残酷でもペシャンコに潰れたネコの死体を実際に見せねば、心の認識は難しいものです。凍えた経験の無い人間にぬくもりの恩恵が分からない様に、飢えた経験の無い人間には食べ物の恩恵が分かりません。豊満な物質社会で育った裕福な子供達は、ライターやマッチが無ければ火を起こす事も出来なければ、貧乏の惨めさやひもじさを理解する事も出来ず、また我慢して辛抱する事すら知りません。
 つまり、これは実際に経験したかあるいは学習したもの以外は、人間にはなかなか理解できないと言う話であって、死んだ経験の無い“生きている人間”が「生きているその価値」を認識するという事はとかく難しい話だと言わざるを得ません。精神的に追い込まれて、ちょっと苦しく感じただけで、“直ぐに死んで楽になろう”とする現代人の傾向は全く頂けない話です。この世はある意味では“生き地獄”そのものかも知れませんが、あの世から見れば、この世は喜びと希望に満ち溢れた正真正銘の天国浄土に他なりません。「光」や「匂い」や「音」を感じ取れる事は勿論、相手の存在をこの五感を通じて感じられる事自体が素晴らしい事であり、それが「生きている証」であることを認識しなければならないのです。

 生きている人間が「生きているその価値」を理解できないからと言って、「死」を一度体感して貰うという訳には行きません。生と死の境界線を跨ぐ危険な臨死体験をわざわざ経験させなくても、生き物は皆運命的に死の重圧を背負っており、死の到来を横目で見つめながら生きている様なものです。その時期の年齢に至れば、心と体の分離が進行し、客観的に「生」の重要性を認識できるものだと思われます。もし、どうしても死を体感したいのならば、それは睡眠(擬似死)中に於ける夢の中の自己を想像して貰うと遠からず当たっています。悪夢も楽夢も己の境涯次第、あの様な意識だけの茫漠とした精神世界が死後の世界だと言えます。
死後の世界は生の世界の延長線上に存在し、その違いは肉体が無いだけの話に過ぎません。現世の様なシャープで明晰な意識は囲えないものの、生前の自己の記憶もそのままであり、自分という意識もまた自己本来の性質もちっとも変わらないものです。夢の様な朦朧とした精神世界が死後の世界ですが、主体的な事は何も起こせず、鏡の中の虚像として実像世界である「人間界」を客観的に眺め入るだけです。それは映画や芝居を鑑賞する観客の立場であって、もはや主役を演じる事は出来ません。
物事を達観できないまま苦しみから逃れる目的で軽率に死を選択すれば、あの世でも苦しむ事になります。悪夢にうなされて苦しんだ経験は誰にでも在る筈です。ちゃんと問題を解決して、心の整理が付いてから満足して死を迎え入れるのが理想ですが、それを願っても叶わないのが普通であって、せめてこの世の“よしなし事”に対する執着を達観できる(諦められる)様な年齢まで生きることが重要かと思われます。その様な意味では、「成仏」とは平たく表現すれば“満足”に近い意味かも知れません。
さて、現代科学の様に、心が大脳に存在し人の意識は人体で形成されるものと単純に考えてしまえば、死の概念とは「無」となり、人間が死ねば意識も消滅して一切が無に帰する事になります。それは相手を殺せば無にできると言う意味にも通じ、また自分が死ねば自己の苦しみも無に出来ると言う意味にもなります。現代人の短絡的な思考回路には、間違った科学思想の影響が色濃く見受けられるのは否定しようも有りません。もし、日本国が本来の仏教哲学で子供を育てれば、若者の集団自殺など在り得ない話だと思われます。親が手塩に掛けて育てた大事な子供なのに、自己の「生きる意味」が感じられないと理由で、いとも簡単に死を選択されるのでは堪りません。これは由々しき社会問題だと言えましょう。

 

次回に続く

 

人は何の為に生きる?(2)

 

 「幸せになりたい」のは別に人間でなくても生物ならば皆同じです。「幸せ」という結果を到来させる為には、一体どの様な原因を造れば良いのか、それを具現化する為の現実的な労力が必要となります。もし、貴方が「未来の宇宙社会」の到来を夢見ているなら、それを現実化させる為には、一体どの様な原因を造れば良いのか、その未来に対する具体的なプランが必要なことは勿論、それを実際に実行しなければ、未来という結果は生じて来ないのです。
耳が痛くなる様な超現実的な話ですが、とかく精神が高揚した陽化社会は土台基盤(陰の原因作用)をなおざりにして、「夢や希望」(陽の結果)だけを先行させてしまいがちです。畑に種を蒔かずして如何なる収穫も有り得ないことは承知の通りです。結婚や新規ビジネスの十中八九が失敗に終わる原因はたった一つ、物(家庭や会社や子供など)を産み出しそれを維持(成長)させて行く為には、陰の「発汗的な労力」が必要なことを認識していないのがその理由です。勿論、陰の所業とは陽の芽生えを誘発して、それを育てる為の行為であって、通常親が子を育てる行為の事です。

この生命哲理 宇宙論という未来の種子を畑(民衆)に下種(げしゅ)する作業こそ、陽の芽吹き(信者)を誘発する「原因を造る行為」と言えます。その下向きの作業を無くして生命哲理 宇宙論(未来)が開花する事は有り得ません。単なる認識論に過ぎない生命哲理 宇宙論は上空の磁場位相(心)と同じもの、それは個々の肉体(地球人)と合体して始めて生きた機能を発揮するものです。我々にとって地球人(新しい仲間)は我々の子供に各当します。それを大事に育てる事が我々の使命です。我々親の立場の人間が互いに愛情(合い情)を分かち合う事が出来なければ、地球人もまともに育たちません。地球人が育たないと言う事は、生命哲理 宇宙論が開花しない、つまり地球に未来は訪れないと言う深刻な問題となります。
今の我々は「あんたの稼ぎ悪いから生活に困るのよ」となじり合っている夫婦と一緒、経済的な問題で本質の業務(子育て)にひびは入れたくありませんが、この陰の土壌基盤を確固たるものにしなければ、現実問題として心の余裕が失われ、夫婦の愛情を育てる事もまた子供を育てる事すら難しくなります。既に家庭(組織)は造られ子供も誕生しています。生活費が無いから貴方は家庭を放棄するのでしょうか?

 一人の人間が生きる為には、食料や空気が必要なことは勿論、睡眠や栄養や社会知識も必要であり、特に子供は親ばかりではなく誰かに導かれ手を掛けて貰わなければ一人前に成長する事は出来ません。生物が「世代交代」によって、その肉体を世襲的に存続保持して行くことに重要な意義を見出せない人間は、「人は子供を育てる為に生存している訳では無い」と考えているのかも知れません。だが、人類全員がそう考えてしまえば、僅か100年で人類は本当に滅亡してしまいます。45億年もの進化の末に、宇宙がやっと創造し得た精巧な芸術作品(肉体)を個人の存在意義の為に水泡に帰さしめる事は出来ない相談です。人生80年という束の間の時間内で、一人の人間が生み出せる物などたかが知れており、世代交代によって文化も科学も進化していると言えましょう。
 人類全体を考えれば、社会の常道に習って自己の義務を真っ当すれば、それなりの成長を得てそれなりの価値や生き甲斐を見出せるものですが、個々の人間を中心に考えれば、確かに培養菌でもあるまいし、何が悲しくてコロニー集団に従属してアクセク生きねばならないのか、と自問自答する意味も分かります。「生きる目的」や「存在価値」を見出せずに、「死」を選択する若者が急増している社会現象は承知の通りです。無論、自殺するのは若者だけとは限りません。この世は余りに悲惨で過酷な“地獄社会”、その奈落の底に突き落とされれば、夢や希望を失った人間には、もはや前進する意欲も無ければ、また生きる気力すらも持てないものです。
もし貴方が“自殺する者は心が弱いからだ”と鼻先で受け流しているならば、それは今貴方の人生がたまたま旨く展開しているだけの話に過ぎません。心の境涯が磐石な人間など存在せず、とかく覚悟の用意が薄い人間ほど困難に直面すればいとも簡単に自殺に追い込まれてしまうものです。むしろ明日は我が身かと、人の不幸を深刻に聞き入る人間の方が本当は強い精神境涯を持っているのかも知れません。夢も希望も見出せないドン詰まりの地球文明、遥か以前に原始生物を卒業した我々人間は、鋭利に研磨されたシャープな鋼鉄剣、緑青に錆(サビ)付いた柔らかい青銅剣とは異なり、非常にもろくて弱いものです。現代人はパンだけでは決して生きられず、生き甲斐を失い、助力者(親や伴侶や友達)を失って、絶望の淵に瀕すれば、もはや我々は誰であっても一年たりとも持たないのが普通だと言えましょう。
 「生きる気力」を失って人間が自殺を冒すぐらいだから、当然人間は「食べる為に生きている」訳では有りません。つまり、パンを食べる為に生まれて来た訳では無いのです。本質的な話をすれば、我々は「生きる為に」、手段として「食べている」に過ぎず、「生きる目的」の為に食して肉体の命を保持しているだけの話に過ぎません。それは「生きる気力」を失えば「食欲」さえも無くしてしまう現実を考えれば、心が本当に死を望めば、肉体も結局それに追従せざるを得ないと言う話です。では、心サイドの問題である「生きる目的」とは一体何でしょうか? またその目的を見出すことが難しい問題であれば、では現代人に「生きる意欲」を昂じせしめる心の要因とは一体何でしょうか? ここではその様な本源的な心の問題に付いて考察して見たいと思います。

 

次回に続く

 

人は何の為に生きる?(1)

宇宙の普遍命題

「人は一体何の為に生きるのか?」という本源的な課題は、我々地球人ばかりの問題では無く、宇宙の高等生命体ならば皆共通して頭を抱える超難題だと思われます。精神機根が未熟な(精神階ソフトを使用できない)原始生物ならばともかく、この問題は心の広域ソフト帯を使用できる(自力判断が可能な)高等生物ならば、いつか必ず直面する所の避けて通れない宇宙の普遍命題と言えましょう。
 与えられた寿命内で、自己の欲望を満たすだけの用事で人間が生きられるのであれば、そんな楽チンな話は有りません。しかし、高等生命体の多くは自己の存在意味や存在意義という哲理的な価値を追い求め、精神的な充足を必ず得ようとするものです。バイ菌の様に何も考えず、本能のままただ無心に生きる事を選ばず、相手や社会や世界といった対象物を意識して、より高尚で高次な価値を求めます。
 100年前の地球ならば、その様な難問を考えるのは哲学者や宗教家の仕事であり、“難しい事を考えずに命が在る事に感謝して黙って生きれ”それで済みましたが、文明レベルが上がった今日では、もはやそんな誤魔化しは通用しません。作業ロボットや奴隷の如き主体性の無い従属的な生き方は過去の時代の話であって、個人意識が高揚した現代人ならば誰でも、一生に一度はその難問に突き当たって「生きる目的」や「人生の意味」に付いて苦悩し、答えが見出せない超難題に頭を悩ますのが普通です。

 一匹の働き蜂(はたらきばち)が突然進化して、人間の様に心の広域ソフト帯の方で物を考えられる様になったと仮定して見ましょう。心の目を開いて明るくなった蜜蜂が最初に感じる苦痛は、「俺は一体何が悲しくて毎日毎日、あくせく花の蜜を集めなければならないのか」という疑問です。お腹がすいた時にだけ蜜を吸って、自由に大空を飛び回りたいと言う願いは生物ならば皆一緒、だが個の都合を優先させれば蜜蜂社会は崩れてしまいます。そもそもこの自然界は、集団から離れた単独蜜蜂が寿命を全うできる様な甘い世界ではありません。たった一匹では一夜すら無事に過ごせないと言う過酷な現実が、集団に結束力を促し群れの規律を遵守させています。
 その昔、一生物種に過ぎない人間の祖先も「野生の脅威」から身を守る為に集団社会を築いて来ました。特に力の無い子供や女性が領地から離れて一人歩きをする事など言語道断の行為、自分勝手な行動は猛獣の餌食となるか、迷って餓死するか、あるいは他部族に拉致されて晒し者になるだけの話です。たった一人の女性捕虜を取り返すのに部族間戦争を起し兼ねません。社会に迷惑を与えず賢く生きる為には必然的に社会の掟に従わなければならない必要が有ったと言えましょう。
しかし考えて見れば、「自然界の脅威」は今も昔もそんなに変わってはいません。野生から遠く隔離された人間社会の内部と言っても、その構造は自然界の営みと同じ、弱い立場の人間や間抜けた人間をおとしめる罠(わな)は、社会のそこら中に張りめぐらされているのが現状です。今では最も安全だった家庭ですら安心できる場所とは成っていません。特に子供やペットはいつ家庭が崩壊して、親に捨てられるかビクビクして過ごさなければならないと言うのは、悲しむべき事態と言えます。

さて、女王蜂が出産を拒否して、働き蜂が労働を拒否すれば、蜜蜂社会はたった一夏で滅んでしまいます。外敵のスズメ蜂に攻撃されて巣が全滅するならともかく、内部崩壊を起して自滅するのは頂けない話です。それと同様に母親が子育てを拒否して、父親が仕事を拒否すれば、家庭は瞬く間に自己崩壊を起してしまいます。不慮の災難で破壊されるならともかく、親の勝手で家庭崩壊を誘発させるのは如何なものかと思われます。そもそも男女の恋愛と結婚生活(営巣)は全く別種なもの、先に巣を造らないと結婚出来ないのが“生物界の掟”です。
つまり、夫婦愛(陽)が家庭の土台基盤をなすものでは無く、生活の営み(陰)が最優先事項であり、本命の夫婦愛とは後から生じて来るものだと言う話です。男女の恋愛感情を基盤にして結婚生活を始める行為は、土台を築かずに家を建てる行為と一緒、陰陽の順序を踏み間違えています。一つ屋根の下で生活して行く内に、単なる恋愛感情が徐々に実って夫婦愛という完熟した姿に成長して行くものです。家庭を築く行為と、会社を築く行為は皆一緒、重要な事は先ず経済基盤を固める事が先決であり、その意味や意義というものは必ず後から生じて来るものなのです。
物事の本枠を抜粋して総括を下せば、確かに夫婦の一生とは男女の愛の成長物語と言えます。しかし、上辺の形質とは言え事実上は男女の生活物語であって、死が二人を分かつその段階に至ってやっと夫婦愛が完成するのですから、比率から言えばどちらにウエイトがあるかハッキリしています。特に新婚当初は八割方“陰の比率”が支配する為に、それは純然たる生活物語に過ぎません。「二人の愛は一体どこに消えたの」と叫んでも、愛は最初から存在するものでは無く、今芽吹いたばかりなのです。とかく若い人間は恋愛(欲望の一種)と愛を勘違いしていると言えます。
しかし、ウエイトは大きいとは言え、生活物語が夫婦の本質ではありません。なにが重要かと言えば、やはり未熟なヨチヨチ姿でも夫婦愛こそ夫婦の全てです。愛とは“合い”の意味であって、互いに認め合い、補い合い、譲り合い、庇い合って、心の一体性を深めて行く事です。その合い情を育てなければ、破風が吹き荒ぶ諸魔多きこの世では、長年に渡って夫婦の形態を維持する事は不可能な話です。夫婦関係が単なる生活物語で終わるならば、こんな不幸せな事は有りません。
生活物語をそっち退けにして、愛情物語を優先させれば、皮肉なことにその夫婦の命は短くものの見事に頓挫する運命が待ち受けています。結婚生活を壊さずに長く続けたいならば、生活物語を優先させる方が簡単です。別に愛情は無くても共同生活は続けられるものであり、陰とは本来そういう形態のものです。長年連れ添っても、その様な心が感じられない抜け殻(がら)だけの「空蝉(うつせみ)夫婦」に意味が在るとは思われませんが、少なくても激しく陽化した「破滅夫婦」よりも、家庭破壊を起さないと言う理由から言えば“罪が薄い”と言わざるを得ません。
これから結婚する貴方に言いたい事は、家庭とは築くものであって、物を造り上げると言う並々ならない下向きの「陰の姿勢」で望まないと、ほんの一瞬で壊れてしまうと言う事です。そしてもっと重要な事は、「陽の芽生え」を確認したら、その絆を大事に育てて行くと言う事です。夫婦の愛情物語とその子供(絆)の成長物語は基本的に一緒、まるで鏡に反映した虚像の様に、夫婦の愛情が冷えれば子供と親の関係も冷えてしまいます。子供を健全に育てたいなら、夫婦愛を健全に育てるのが一番の早道、子供がおかしくなったら自分達の姿を鏡に投影して軌道修正する事です。

 

次回に続く