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〈十二支概論(申・酉)〉

    9) 申(さる)の生命

              ※ 磁界: 第9磁界(理性階)
              ※ 容量: 9cal
              ※ 分類: 空諦階空諦(気体階気体)
              ※ 人象: 老人(老年期)
              ※ 星座: 天秤宮(天秤座)
              ※ 月節: 9月(申月)
              ※ 時節: PM5時〜PM7時

         ※ 〈磁場の特徴〉
 第9磁界とは第8磁界を丸ごと包み込む磁界であり、磁界直径が約37万kmにも達する磁界である。現在、衛星の月軌道が約42万km付近に存在するが(以前は38万4000kmだった)、事実上の現世の終末に位置する磁界であり、これより上は純然たる精神階域であって、霊長類専用の磁界となる。一般動物の位相はこの磁界まで存在している。第9磁界の上、第10磁界との境目には特殊な領域である「創作磁界(37万km〜45万km)」が在って、範囲的には第10磁界に所属する磁界ではあるが、理性階の最高到達地点であって、訓練次第では人間ならば万人が使用可能な磁界である。ちょうど月軌道が存在する辺りである。無論、一体何が創作磁界に到達するのかと言えば、個人の意識ではなく心動帯であって、自己意識の集積帯(心の焦点)を創作磁界まで延ばす事が出来る。物理的に第9磁界には物質は何も存在せず、存在するのは第9テトラ力体と、真ん中の第9渦流と、一連の生物位相帯が存在しており、人間の心動帯が忙しく動いている領域である。創作磁界は力場の範疇から見れば、事実上は第10テトラ体に属しているが、第10磁界(磁界半径250万km)の真ん中(地上高度約110万km)付近にいわゆる「三途の川」が流れており、これより下界は「この世」、これより上界は「あの世」と明確に区分されており、その関係性から現世側に位置する「創作磁界」は第9磁界の延長線上にあるとするイメージが強い。第9磁界とは細胞で表現すれば、いわゆる細胞膜よりも下の物質領域を指す。それより上は細胞磁気(電磁場)と力学的な細胞ヒールの領域、すなわち細胞の精神階に相当するが、創作磁界とは細胞膜の表層部を指しており、糖鎖アンテナ(細胞の触覚)の部分を指している。

         ※ 〈申の意味〉
 「申」の語源は「坤(こん)」で、申という字はその簡略形である。元々は万物を育成する大地(現世)の意味であるが、木々の枯葉が大地に吸収され、一年(一日や一生)の計が集結を迎えて大地(全体)に戻る黄昏時(たそがれどき)を意味しており、気学の「坤宮(こんきゅう)」に準ずる言葉である。早い話が、この世から「申(さる)」という意味であるが、それで全てが完結する訳ではなく、引き続き上の世界へ「申(のびる)」余地がある、という話である。「日没で一日の計は終わったものの、一日自体はまだ終わっておらず、引き続きがありますよ」、あるいは「秋枯れの季節が訪れて、木々の葉は大地に戻れど木自体は死んだ訳ではなく、次の行程に進むだけの話」、「現世の次には死の世界が待ち受けている」、そうした意味が申の語源であるが、一日や一年や一生の計の集大成の時であり、また、その計に対する報果(ほうか)が決定される期間でもある事から、老年期とは計の申告と、その裁きを受ける意味深な期間でもある。報奨に値する生涯を送った者と、刑罰に値する生涯を送った者と、その中間の生涯を送った者に対して、善と悪の度合いを計られて裁きが決定されるのである。申とは生命成長の第9段階を指す表意言語であり、季節は9月、時節はPM5時〜PM7時、植物で言えば枯葉を落として裸(枝木)になった状態であり、次の冬を越せるのか、そのまま朽ち果てるのか、岐路に立たされた段階を指しており、元より動物の「猿」の意味ではない。人間で言えば、死に間際の70歳代の老人を指しており、生涯の総決算が迫られる年代である。易学上では申は陽化具現率が80%を超えた状態(90%未満)を意味しており、また、仏法十二因縁では「老死」の段階と称され、老いて死する生命段階の意味である。西洋占星術では黄道十二星座のうち第9番目に出現する星座を天秤宮と称しており、「善」と「悪」を天秤に掛けて、人間の生涯に対して裁きを下す星と言われている。ちなみに第9磁界の天体神は、古事記では「須比智邇尊(すひぢにのみこと)」と称されている。

         ※ 〈磁界の質〉
 第9磁界は理性階の最高峰にあって、一般的には真偽の判断、善悪の判断、推理と洞察、調和と均衡(バランス)、価値と意味、原理と道理、詳細と概略、人生観と宇宙観など、理性分析というより哲理的な思考で総合判断を行う磁界である。午の生命を研究技師とすれば、未の生命は講師や助教、申の生命は教授であると言っても構わない。部下の具体的な研究成果を集めて総論を下す様な役割の磁界である。従って、誰もが簡単に入力出来る様な磁界ではなく、それなりの訓練を積んだ者が長い時間を掛けて到達する獲得磁界であって、人間経験が豊かでなければならない事から、実年齢が大きく物を言う磁界である(若者には難しい)。当然、申日の生まれだから入力出来るとは限らない。また、第10磁界に存在する「創作磁界」とはこの第9磁界の基盤の上に成り立っており、飛び級でいきなり直接同会出来る様な場所柄ではない。第9磁界で叩き上げられた者だけが入力出来る創作磁界、そこに心動帯を入力出来れば、「識別力」が備わって宇宙真理を自力で解読出来る様になり、更に真理を具象化して理路整然(科学的)と言語に表記する事が出来る。正統な手順を踏んで、第9磁界から創作磁界へ辿り着いた地球人は僅かしかいないが、多くの者は空間画素を介した意識同会でこの創作磁界に足を踏み入れている。それは茫漠とした意識同会である為に、僅かに「啓示」という形式で真理の一端を見るに過ぎない。多くの芸術家や宗教家や音楽家などが創作磁界へ到達しているが、それが心動帯の同会ではない為に、具体的な真理を汲み取れないのである。

 「別に訓練しなくても直接肉体を月に運べばいいじゃん」、そういう西洋的な考え方もあるだろう。月ロケットの乗組員が場に感化されて神様みたくなるのだが、彼等は理性階で訓練されていない為に、具体的な真理を言葉で表現出来ないのである。創作磁界に自己の心動帯を入力し、そこでじっくり思考して、あらゆる分野の真理を模索しなければ、役に立つ具体的な真理を得る事は難しい。そういう智慧を身に付けた者が悟り同会を果たして銀河系同会すれば、今度は銀河系の創作磁界を使える訳であり、また、その者が小宇宙に解脱して、そこの創作磁界を使える様になれば、それは紛れもない如来神であり、人間を導くリーダーとなれよう。識別力を培(つちか)える、宇宙で最も高度な磁界、それが「創作磁界」なのだが、そこに行く為には理性階トップの第9磁界をマスターし、卒業しなければならない。さて、解脱の骨は意識同会法であり、イメージさえしっかり固定出来れば(描ければ)、理性階域のどこからでも上界へ上昇が出来る。心動帯を使えるのは別に地球に限った事ではない。銀河に解脱した方は銀河系の心動帯を使用して、そこの第8磁界や第9磁界へ到達しなければならない。仮にお馬鹿なあなたが首尾よく銀河解脱を果たしても、銀河解脱を果たした仲間の中ではやはりお馬鹿である事に変わりはない。第7磁界レベルの方は銀河系でも第7レベルなのである。地球だろうが、銀河系だろうが、何処だろうが一緒、自身の境涯を高める為には、今同会している天体の磁界階段をちゃんと昇らなければならない。

 第9磁界とは、いわゆる総合判断を下す磁界であり、要点を漏らさずに、また論点を違わずに、本義を見極めた上で総結論を導き出す磁界である。そこに自分の私的な思惑が入ってはならない。仕事の慰労会の席上なのに、それを催した上司が権限を乱用し、その場で部下をこっぴどく叱責する様な場違いを起こしたり、あるいは結婚式の席上なのに、仲人(なこうど)自らが菅原洋一の「今日でお別れ」を歌うとか、赤ちゃんをオンブしたまま国会に出席するとか、まあ、居ないとは思うが、渋谷の駅前で野グソを垂れる様な、かなりお下品な方も数の中にはいるだろう。人間ならば、最低限はエチケットやマナーを弁えて、周囲の状況を判断出来る人間になって欲しいものだが、第9磁界ではそうした道徳観や倫理観や自制心や配慮や気遣いなどが厳しく要求されてくる。そもそも、理性力とは欲望をコントロールする為の武器である。理性階に同会した者が欲望に負けて責任や大義をなおざりにする様では終わっている。理性力を身に付けて、物事を正しく理解する事は当たり前の話だが、それよりも重要な事は、理性力を磨いて人格を築き上げる事であって、人や社会から認められる生命になる事である。理性階に同会していても、人格がままならない方が多く、第9磁界に入力出来ている方がまことに少ないのが現状である。ちなみに、第7磁界や第8磁界では人格は磨けないのである。自分の現在の同会先が第7磁界なのか第8磁界なのか、それとも第9磁界なのか、あるいは第10磁界の創作磁界に同会しているのか、それは自分の神様に聞いて、一層の努力を積みましょう。

 所で、第9磁界に心動帯(目線)を定着させるのは至難の技だが、その上の第10磁界の三途の川の向こう側ならば、犬でも猫でも人間でも誰でも入力が可能なポピュラーな磁界である。無論、そこは睡眠の磁界であり、自己の心動帯の運動を休ませる磁界だからである。人間は複合的な存在であって、肉体意識(ヒール意識)も在れば、魂体(オーラ球)意識も在り、更に位相内意識も在って、また、心意識というものも存在する。人間はこの四つの意識の総合体なのだが、「我」を自覚する所の明晰な意識とは心意識(覚醒意識)の方であって、これは常に運動している活動意識である。この四つの意識の中で唯一睡眠を必要とするのが、主人公である心意識であって、後の三つの意識は休憩はするものの、眠る事は無い(24時間覚醒)。我々は毎日睡眠を取っているが、睡眠とはそもそも「仮死状態」の事で、基本的に我々は毎日死んでいるのである。第10磁界の三途の川を境にして、それより下は生の世界(この世)であり、それより上は死の世界(あの世)であって、心動帯が境界線を越えれば、あらゆる活動が停止して「死んでしまう(眠ってしまう)」のである。人間が心動帯を手放して睡眠に入っても、他の三つの意識が起きている事から、時間が来れば肉体に心を呼び戻してくれるが、時には永久にそのまま眠ってしまう場合もある。第9磁界に心動帯を定着させようとすると、その場が強烈なリラックス磁界であって、ボンヤリしたり、夢想や瞑想をする様な場所柄である理由から、そこで無理に意識作用を起こそうとすると、やたらと眠たくなって、動帯を手放してしまう為に、だからこそ逆に定着が難しいのである。

 申の磁界には明白な央分点(おおぶんてん)が存在し、高度半径が30万km付近に上下を区分する明確な境界線が存在する。実はこれ、気体グループの「寅巳申亥」には必ず存在するもので、季節と一緒で、春3月(寅月)の春分点と、夏6月(巳月)の夏至点と、秋9月(申月)の秋分点と、冬12月(亥月)の冬至点の事である。第6磁界の央分点と言えば、液体と気体の境目であり、重力圏と磁力圏の境目でもあって、物理的に明白だが、それと良く似た様な境界線が、寅の磁界(内気圏と外気圏の境目=固体と液体の境目)にも、申の磁界(内磁場と外磁場の境目=気体と霊体の境目)にも、亥の磁界(輪廻の折り返し点=回帰点=霊体と固体の境目)にもある。この他には第10磁界を区分する「三途の川(この世とあの世の境目: 地球磁場圏管轄と太陽磁場圏管轄の境目)」が存在するが、これらは内側と外側では明確な差が存在し、そこに存在する位相意識にも大きな影響をもたらしている。一般に、第9磁界の央分点より外側に位相が位置する申の生命の場合は「大申(おおざる)」、一方、内側に位相が位置する生命は「小申(こざる)」と称されており、同じ申の生命でも、現れ方がこんなにも違うのかと驚く。それは無論、寅にも巳にも亥にも言える事であって、いわゆる人格が高い大物系の人物と、人格が卑屈な小物系の人物に明確に分かれ現れている。小物寅、小物巳、小物申、小物亥が居るという話だが、酉の場合は大物小物の分類訳ではなく、あの世酉(来世酉=馬鹿酉)か、この世酉(現世酉=優秀酉)に分かれて現れる。

         ※ 〈一般的な性質〉
 申の生命と言えば、体の動作仕草がおっとりしていて、急がない(急げない)事で有名である。特に、生まれ年が申であると、本人は必死で急いでいるつもりでも、体の軸が全然ブレておらず、急いでいる様には決して見えない。申と180度正反対なのが寅の生命であるが、こちらは早過ぎて、「エー、もう終わったの?」と驚き仰天する。寅は10歳代の子供、申は70歳代の老人、この速度感の差は埋め合わせ様も無い。第9磁界に当人の位相が存在すれば、分類上、この方は申の生命と言えるが、しかし、申の基質は有していても、肝心要の心の目線(心動帯)が申の磁界に同会していなければ、申としての行動や判断は事実上は示せない、だから正確に言えば申ではない。生れ日が申だから高尚で優秀なのかと思いきや、基質だけが申であって、酷い人格を呈する人間も多い。特に腰が低い(ヘコヘコしている)小申系の生命は狡くて危険である。大申系の生命が名誉心を重んじる絶対専制君主なのに対して、子申系の生命は毅然とはしておらず、計算高く抜け目なく立ち回って、人を利用して利益を掠(かす)め取ろうとする。無論、見栄や体裁などは構わない。「お茶を注がれても、自分の連れにお茶を先に飲ませて毒味をさせた後から、やっと自分が飲む」といった狡猾さである。ちなみに、アルベルト・アインシュタインは申の生命(小申系)だが、特許庁の役人時代に、数学者のポアンカレ(仏)が特許を提出した「相対性理論」を丸ごと真似て、自分の理論として学会で発表した。そもそも大申系は「舌」を出したりする様な下品な真似はしない。一般に大申系には品格が在って、小申系にはそれが無い。だが、両方とも心の融通生には富んでいるものの、請け売り主義(自分の意見が無い)で無節操、心に一本縦軸が入っておらず、「芯(しん)無し人間」であって、おまけに「助平さ」も一緒である。

 本来、申の生命とは天から「善悪の行業」を裁かれて「通達」を待つ身の上なのに、反対に「天秤」を振るって人を篩(ふるい)にかけ、利益にならない者や、利用価値の無い者や、不利益になる者や、可愛くない者を罵倒し、「いびり倒して」選別している。会社の仕事を盾にして、まるで皇帝ネロの如き横暴な者も中にはいるが、人を裁くのは神々の役割、同じ人間なのに、その性癖は絶対に慎まなければならない。申の生命の気質は70歳代の老人である事から、実年齢とは無関係に、一見、精神的にも行動的にも、落ち着いた「大人の人間」の様に見える。目上の者への配慮や、親の立場や、会社の立場や、上司の立場や、職務上の立場など、世間を良く弁(わきま)えている事から、会社からの信頼が厚く、いつの間にか責任のあるポストに着いているケースが多い。他の生命と比較すると、若いのに「我(が)」も出さないし、「色」も出さないし、「反旗」も見せないからである。なぜならば、申の生命には「自我」も「自色」も「反旗」も元々薄く、出し様が無いからである(気体属なので、圧迫感や作用力がフンワリしていて薄い)。だから、お利口ちゃんの優等生で立ち回って立身出世を果たせるのだが、残念な事は、欲望心が走馬灯の様に次々と入れ替わっていき、物欲(色欲)―出世欲―地位欲―権力欲―財力―名声欲―名誉欲といった具合に、段々エスカレートしていく。終いには、「自分の銅像を建てたい」とか「宇宙飛行士になりたい」とか「神様になりたい」とか、無限に欲望を高じさせていくので、結局「ボロ」を出してしまう。ちなみに、申の生命は「欲望の陳列棚」とか「欲望のデパート」とか、巷ではそう囁かれているが、元ゾゾタウンの創業者である前澤友作氏がその典型的な例である。

 世間(社会)に精通している事を、仏法では「世間解(せけんげ)」と言う。「申」と「酉」は生命成長の「晩年」と「死後」の意である事から、世間という物を良く心得ており、「世間解(世間操作)の神」とも呼ばれている。世間解はある意味では「策士」であるとも表現出来るが、ある時は世評を論じる批評家であり、またある時は世間に裏工作を施す「仕掛け人(スイーパー)」であって、駆引きに長じている理由から、宗教や政治や経済やマスコミ世界の裏舞台で活躍している人も多い。そんな優秀な生命が結婚して伴侶をもらうとなると、それは一般人が単純に憧れている結婚観とは大きく異なる。辰の生命ならば「恋愛感」を軸にして結婚を考え、また、午の生命ならば今の地位や財力を軸にして結婚を考えるが、「申」や「酉」の場合は非常に賢いので、好きな人と結ばれたいのは山々なれど、物事の先々をあれこれと憶測してしまうので、相手の形質に絆(ほだ)されて惑わされる心配は無い。自己の親族や相手の親族と上手くやっていけるのか、伴侶に対して自分が最後まで責任を持てるのか、この人は最後まで実直勤勉に働いてくれるのか、自分の思い通りの家庭が築けるのか、そんな結婚の諸条件を厳格に色々と模索してしまうので、男女とも結婚が遅れがちであり、時には独身を貫いてしまう場合も多い。申酉の生命にとって、家庭を持つという事は「仕事」の一種なのである。従って、申酉の生命が結婚を決めたという事は、女性も男性もそれなりの覚悟を持って所帯を切り盛りしていくだろうし、家庭に対する責任感が半端ではない。ちなみに、申の男性は平均的に助平であり、良く隠れて浮気するものの、家庭は家庭でちゃんと守る人が多い。

 いくら財産がある名門家庭の御曹司と言えども、家風や敷居や姑に縛られて長期間苦しむならば意味が無く、また、財産のある家庭に嫁いでも、ケチ母とケチ夫を相手に財布の実権が握れるとは限らず、月々のお手当(生活費)でやり繰りするならば、それは貧乏人の家庭に嫁いだのと一緒であって、見返りのない発汗などしたくないと考えてしまう。結婚とは戦いの場(一種の賭け)であって、自分が必死に尽くしても、相手次第では努力が報われない場合も多い。おまけに浮気なんぞされたら「ヤットレ」ないし、下手な結婚で時間を無駄に費してしまえば、若くて美しい時代(熟れ期)を徒らに縮めてしまう、それが申酉の結婚観なのである。そんな事を考えていたら100年の恋もあっという間に冷めてしまうだろうし、この連中は少なくとも勢いで結婚してしまう様な馬鹿な真似はしない。こうして考えてみると、どこまで思慮分別が行き届いているのか、あるいは全体的な判断や客観的な判断やシビアーな判断が出来るのか否か、それが「大人」と「子供」の差であろうと思われる。その様な意味で、申の生命は世間を良く知り、全体的な眺望観で物事を計れるばかりか、社交術にも良く長けていて、人間関係に於いては「調和感覚」や「バランス感覚」に富み、良い趣味や高い審美眼も備えており、信頼されて、民衆のリーダー格になり得る十分な要素を持っている。もし、欲望をコントロール出来れば、自惚れ屋で自己主張の多い「午」や「未」の生命よりは遥かに高い格上の生命なのだろうと思われるが、でもこれは「良く出来た申」の場合の話、つまり、第9磁界に同会した申の生命の話である。大申でも小申でも、第9磁界に同会すれば人格を磨いて高尚な生命となり得るが、それが出来ない場合は大申も小申も単なる猿知恵のただの「申」、ろくなもんじゃないというのが相場である。

 

 

 

   10) 酉(とり)の生命

             ※ 磁界: 第10磁界(精神階)
             ※ 容量: 10cal
             ※ 分類: 妙諦階中諦(霊体階固体)
             ※ 人象: 法身(法身期)
             ※ 星座: 天蠍宮(蠍座)
             ※ 月節: 10月(酉月)
             ※ 時節: PM7時〜PM9時

        ※ 〈磁場の特徴〉
 第10磁界とは第9磁界を丸ごと包み込む磁界であり、磁界半径が地球の中心点から約250万km(第9磁界の6.7倍)にも達する巨大磁界である。第9磁界より外は純然たる外磁場であり、地球渦流の最外殻層の一つであって、物理的には母星磁場圏(太陽)の効力範囲である。第10磁界の特徴は衛星の「月」が存在するという事であり、また、この磁界には「三途の川」と呼ばれる境界線が存在し、物理的にも太陽磁場圏の効力範囲内(あの世)と、効力範囲外(この世)という明確な区分線(央分点)も存在する。また、この磁界の最内殻(第9磁界の直ぐ上)には創作磁界(啓示磁界)が存在し、宇宙で一番優秀な「識別磁界」が存在する。物質的には月以外に存在する物体は何も無いが、アストラル物質としては第10テトラ体と、気の粒の第10渦層と、一連の霊界位相が存在するが、ここから上の位相群は「霊長類」専用の共有位相であり、猿以外の他の動物位相は存在しない。また、その数は少ないが、この磁界から「単独位相」が存在する。第10磁界の中では心動帯が激しく動いている様子は殆ど見られないが、唯一動いている場所が下層領域にある創作磁界である。そもそも、第10磁界とは睡眠の場(死)であって、心動帯を運動させる場ではない。また、第10磁界と第11磁界と第12磁界の三つの磁界を、力学的には心動帯(ヌーエ動帯)の生産部であり、同時に収納部(ヌクヒブイ動帯)でもある所の「ネブヤハゲル領域」と称している。心動帯の生産部は12箇所の各テトラ力体に存在するが、基本的にネブヤハゲル領域とは酉と戌と亥のテトラ体の物を指す。つまり、心動帯には「第10動帯系」と「第11動帯系」と「第12動帯系」の三種類が存在する事になるが、普段は定められた動帯を使用しているものの、人間の場合は他の動帯も使用出来る。ちなみに、第10動帯を使用している者が第8磁界を使用する場合、本家の動帯(本家動帯)が標的のサブ動帯(分家動帯)へ記憶を転写し、最大で4枚のサブ動帯を使用して、より深い分析を同時に行う事が出来る。

        ※ 〈酉の意味〉
 酉の語源は「猶(ゆう)」であり、酉という字はその簡略形である。その意味は「以前として(なお)〜である」であって、正確な意味は「死して猶(なお)健在である」という意味を表現している。また、酉は「酋(しゅう)」であり、「熟成された(優り秀でた)」という意味であって、元より酒壺(とっくり)の意味ではなく、むしろ骨壺の意味に近い。人間が死ぬと、その意識は光が無い世界(アストラル世界)で目覚める事になるが(霊魂体)、この状態は、まだ魂体という地上の形を有している事から、冥界(神界)の法下に呪縛された身の上であって、過去の行業を裁かれている段階であり、「法身(ほっじん)」と称されている。法身期とは人間の実年齢で言えば約100歳前後の老人域を指しているが、肉体が有ろうが無かろうが、満100歳近くなれば、厳密には老人期ではなく「法身期の生命」と呼ばなければならない。植物で表現すれば、酉とは老木が個体死を迎えてあらゆる器官を停止させ、今はその形骸だけが残っている状態を指しており、死んでしまったものの、それでもなお木としての「存在感」を見せつけている段階を表現している。法人期の生命は冥界の管轄下に在って、その言動が本人の意思に基づいたものなのか、それとも背後の神々のなせる技なのか、本人自身も良く分かっていない。何れにしても酉は死人であって、現世側の生命ではなく、さまよえる幽霊なのか、取り憑いた背後霊なのか、あるいは物を言う神様なのか、その判断に苦しむ生命である。酉は生命循環の第10段階目を表す表意言語であり、季節は10月(酉月)、時節はPM7時〜PM9時、植物に例えれば、朽ち果てた死木の骸(むくろ)の事である。易学上では、酉は陽化具現率が90%を超した状態(100%未満)を意味しており、また、仏法十二因縁では「無明」の段階と称され、死して無明に至った生命段階を指している。また、西洋占星術では黄道十二星座のうち、第10番目に出現する星座を天蠍宮(てんかつきゅう: 蠍座)と称しており、冥界の法を地上に施行する星と呼ばれている。ちなみに、第10磁界の天体神は古事記では「宇比地邇尊(うひぢにのみこと)」と呼ばれている。

        ※ 〈磁界の質〉
 第10磁界は何と言ってもその央分点に在って、あの世(死の世界)とこの世(生の世界)を別(わか)つ境界線(三途の川)が存在する事であり、磁界自体が心の入力が果たし難い、仮死(眠り)か、もしくは本死の磁界だという特徴である。地球人類は月面着陸に成功しており、第10磁界の入り口には足を踏み入れた経験を有する。だが、もし仮に人類が有人探査船で高度110万kmに存在する境界線を突破すれば、その瞬間から解脱をしていない者はたちまち仮死状態に陥って、次の瞬間には即死する乗組員も出てくるだろう。更に地球磁場圏から外に出れば、いずれは乗組員のズザネ管(命のコード)が切れて、解脱者の命すらも失ってしまう。三途の川を越えれば「死の世界(冥界)」、そこは太陽天使界の下部組織である「太陽守護霊界」が存在する場所柄である。平たく言えば、三途の川の向こう岸は地球人のご先祖様の居場所だと言って良いだろう。地球人が宇宙空間の外に出たいならば、科学者ではなく、神様からの知恵を拝借して、霊界構造や生命構造の知識を勉強し、冥界管理者の許可と協力を取り付けないと外空間には出られないのである。それでも第10磁界の下層領域には物理的に心動帯も入力出来れば、また、肉体も運び入れる事が出来る。下層領域には月が存在し、その周辺は「創作磁界(啓示磁界)」を呈していて、心動帯の運動(心の営み)が行える唯一の精神領域だからである。さて、第10磁界は「ネブヤハゲル動帯」の生産場所の一つであり、本家の心動帯を人間に供給してくれる力場である。いわゆる精神活動の中核部であって、地上の多くの生物がここで生産される心動帯(回路端子)を使用して心を営んでいる。

 ネブヤハゲル動帯(本家動帯)とは生物が精神活動を行う為の「集積回路端子」の意味であり、それぞれの磁界の中にも分家の端子生産所がある事から、本家動帯が分家動帯を操作して「12の四乗倍」の分析出力を醸し出している。渦磁場そのものが一つの集積回路であって、我々は渦磁場の端子を借りて心を営んでおり、そういう回路系の生命体の事を「自律生命体」と称している。この宇宙には機械生命体と自律生命体の二種類が存在するが、自律生命体の最大の特徴は「赤ちゃんからスタートして段階的に成長する事」と「睡眠を取る事」である。人間生命は霊界の位相に自己意識(記憶)の源が存在し、また、その電子位相とは同時に地上の肉体を動かす為の電源(動力源)でもある。誕生の際に位相電源と繋がる事で肉体は発動するが、ロボット(肉体)に電気を入力しても、それだけではロボットは動かない、なぜならば、ロボットには指揮命令を出す「ソフト(集積回路)」が入っていないからである。生物体は魂体にオーブ核(心の焦点)を有しており、天体の集積回路と直接繋がっている理由から、電源さえ入れてやれば自律運動が可能なのである。さて、第10磁界とは基本的に「睡眠」の磁界であり、地上の肉体と心動帯の接続が一時的に切れる磁界である。「なぜ、睡眠が必要なのか」と言えば、心動帯に休憩を与える為であり、疲労した動帯(端子)の活動力を復活させる為である。つまり、肉体側の問題ではなく、回路側の都合であって、接続が切れる為に肉体操作が不能となり、「仮死状態」に陥るのである。

 また第10磁界とは「死の世界」の入り口である。「死」とは一体何の意味だろうか。地上肉体と空の上の位相を接続するズザネ管を切断してやれば、自律神経電流がストップして、生物はたちまち死に至る。しかし、大脳の中心部にある「オーブ核」を破壊しても、肉体には電流が流れており、心臓も内臓も停止する事なく動き続けている。だが、心回路との接続が切れた為に自律運動が不能となり、立ち続ける事も、歩く事も、思考する事も、喋る事も、口を動かす事も出来ない「植物状態」へ変じてしまう。つまり「廃人化」してしまうのだが、オーブ核を元に戻してやると、何事も無かった様に起き上がって喋り始める。この様に考えると、地球霊界の位相が一番重要な物であり、位相内の電子バイオンに存在する自我意識とその記憶こそ一番大切な物である。肉体という器は地上の借り物に過ぎず、また、心回路とは天体からの借り物に過ぎないが、位相は我自身の所在地であり、そこには過去世から続く個人のアカシック履歴も入っている。位相自体を破壊されれば、その生命はこの宇宙から完全に消え去った事になるのである。不慮の災難で肉体を失っても、位相が無事であれば、赤ちゃんからのスタートではあるが、再び誕生が訪れて、人間として生まれ変わる事が出来る。また、人間が嫌ならば、位相さえ在れば、神の一員として存続する事も出来る。これは霊界の常識であるが、神々は「死」の概念を「肉体死」と考えておらず、位相内の生命意識を召喚される事が正真正銘の「死」であると考えている。

 では、肉体はそんなに必要な物ではないのかと言えば、決してそうではなく、そもそも肉体とは心や意識を宿す為の器であり、自己を成長に導く為の道具であって、使い捨てライターの如く一回コッキリしか使えない代物だが、極めて重要な物であるという共通認識は神界にも在って、それは人間世界と一緒である。使用期限は短いが、宇宙で一番精巧で緻密なハードがあるから、人間の人間たる由縁を具現する事が出来ており、その価値は有象無象の六道凡夫ソフトよりも高く、まるで暴走族が高級車を乗り回して、折角の高性能車をポンコツにしてしまう様な感覚で人間世界を眺めている。お馬鹿には物の価値が分からないのである。肉体とは創造主世界からの借り物、もっと肉体を大事に扱って頂きたいものである。さて、第10世界とは物理的な肉体死の磁界であり、人間の肉体は三途の川を越えて外に出る事は決して出来ない。また、心動帯にとっても第10磁界より上の世界は「初期化磁界」であって、一切の動帯内記憶を喪失して、元の零状態にリセットされてしまう磁界である。つまり、肉体と心動帯にとっては「死の磁界」ではあるが、この死の磁界に存在する位相群にとっては何でもなく、バイオン記憶が消去される訳でもなく、普通に存在している。初期化されるのは動帯内部の力気記憶の方であって、磁気と力気は別物なのである。

 第10磁界に自己の位相が存在する酉の生命は、三途の川の向こう側にも位相が存在するし、また、こちらの現世側にも存在し、他の位相生命と一緒であって、普通に心を営んで、普通に寝て、普通に暮らしている。特別な事は何も無い。ただ、三途の川より上に位相が存在する生命と、下に存在する生命には明らかに異なる違いが存在する。一般に、「あの世酉」の生命は成仏お馬鹿の様な楽天的な雰囲気を漂わせるのに対して、「この世酉」の生命は理知的で聡明だが、楽天的では決して無く、執着心が強く、自己のスタイルを崩さないタイプである。酉の生命に共通する辛辣さは両方とも具有しているが、後者が固体的な感じのキリッとした生命なのに対して、前者は幾分流動的で融通生が高い。また、これはネブヤハゲル動帯の話だが、承知の様に本家動帯には3本の系統種が存在し、「第10動帯系(酉系)」と「第11動帯系(戌系)」と「第12動帯系(亥系)」という3種類が存在する。酉の生命も戌の生命も亥の生命も「第12動帯系」を使用しているのに対して、午の生命は「第10動帯系」を使用し、未の生命は「第11動帯系」を使用し、申の生命は「第12動帯系」を使用している。これは多分、磁界との距離関係でそうなっているものと思われるが、下六道界の「子丑寅」や「卯辰巳」の生命は、午と同様に、全て「第10動帯系」を使用している。この様に分類してみると、未の生命だけが「第11動帯系」の本家動帯をしている事実が分かる。使用する心動帯の系統種で、固体系の思考術か、液体系の思考術か、それとも気体系の思考術なのか、それが分類出来る。

         ※ 〈一般的な性質〉
 酉の生命と言えば、頑固一徹なお堅い生命で、他人に対して厳しい辛辣な言葉を浴びせる「サソリ座的な気質」がどうしても目立ってしまうが、そうした人間を裁いて罰する裁判官の如き悪癖も確かに保有しているものの、普段は世間の習わしを良く心得た真っ当な良識家であって、相手の出方次第では時折「伝家の宝刀」を抜く場合がある様だ。酉の生命も申の生命と同様に「世間解」であり、世の中の仕組みに精通した用意周到な生命であるが、なぜか己の判断に理由なき自信を持っており、自己の信念を崩してまで他人に席を譲る事は無い。巧みな社交術で衝突を回避し、賢く立ち回るのが申の生命だが、それに対して、酉の生命は申よりも更に自尊心が強く、腰を低くした蹲踞(そんきょ)の姿勢を相手に見せる事は無い。体裁上の仮面を付けている場合は愛想良く振る舞う場合もあるが、ニコニコしていても目が笑っておらず、頭を垂れても会釈程度しか下げられず、また、お世辞を言っても苦し紛れにしか見えない。酉の生命は社交しているのではなく、単なる礼儀や礼節を実行しているだけの話、場を弁えない無礼な者に対しては、「お前もこうして礼儀を尽くせ」と見せつけている様にも見える。もはやプライドを超えた気高き自尊心と、説教がましい押し付けと、その頭(ず)の高さには舌を巻いてしまう。もしかしたら「お前の正体は神様なのか?」と聞きたくなる程である。

 酉の生命は物思いの多い性格で、普段一人の時は空漠たる夢に耽(ふけ)っているが、大勢の時は人の話を上の空で聞き流し、自分の話となると途端に満足するまでベラベラと喋りまくって、話の機会を人に一向に譲らないという独占癖を有している。また人を当てにせず、また人を信用もしないという信条なのに、他人の一顰一笑(いっぴんいっしょう)を見ては即座に邪推を働かせ、色々と憶測を巡らす悪癖も有している。何事も自分の気が済む様にやりたい性分で、自己流を貫き通す性癖は結構な事だが、そのやり方を人に強要するのは押し付けがましく、独り舞台の自己中心主義も大概にしなければならない。家庭に於いても、自分が経済(財布)と台所の実権を握っていないと気が済まず、伴侶にも干渉されたくないという筋金入りの「自己中さ」である。人を当てに出来ず、人に任せる事が出来ないという性癖は、一から十まで何もかも自分でやってしまう事に通じており、それは人を育てられない意味にも通じる。特に女性は子供に対する執着心が強く、海の深さに匹敵する様なぶ厚い馬鹿愛で包み込んで育てる事は素晴らしいが、子供の自立心のみならず、子供の人生までも最終的に食ってしまうのは頂けない話である。人には干渉されたくないのに、逆に人には自ら干渉していくのは何とも理解に苦しむ。また、酉の生命は「法身(法の番人)」である理由から、躾(しつけ)に厳しく、挨拶や礼儀や作法や言葉使いに異常にうるさい。子供が70歳の老人になっても、母親が生きている限り、「靴を揃えて家に上がりなさい」と注意されるから子供も大変である。

 申の磁界半径が37万kmなのに対して、酉の磁界半径はその7倍の250万kmにも及ぶ。これだけ容量が大きくなってしまうと、場の回転力も遅くなり、理解力も遅ければ、体の反応力もトロく、また神経の方も相当に図太い。だが、鈍い生命体の割にはじっとして居られない性分で、酉の生命は起きている間中休む事なく動き回っている。特に、頭だけ常に忙(せわ)しく動かしている為に、後世では酉は「鶏(にわとり)」であると動物になぞらえられた。酉年生まれの方は布団に入るまで動き回っており、多分、自己の領土を見回って偵察しているのだと思われる。几帳面で片付け魔である事は大変よろしいが、自ら責務を課してきついルーティンを毎日こなし、「自分はこれだけ仕事をしている」と人に見せつけては「俺と比べてお前は遊んでいる」と説教するのはやめて頂きたい。酉の生命は滅多に頼み事はしないが(人の世話を受けるのは屈辱)、その代わり頼み事をしてくる場合は「強制」であり、言葉の背後には「義理を果たせ」とか「恩を返せ」とか「借りを返せ」といった「裏の意味」がある。特に自分に対して背信行為を働いた者に対しては容赦が無く、報復攻撃も辞さないが、逆に自分に対して誠実に敬意や感謝を払う者には慈悲深く寛大であって、大事に扱う傾向が強い。どうやら酉の生命は応仰心(おうぎょうしん)に弱く、讃(たた)えられて奉(たてまつ)られる事が美徳と感じている様子、やはり「酉は神様なのか」と思ってしまう。

 酉は妙諦階(霊体階)の中の固体属であり、固体属に共通する形(形式)を重んじる生命であって、「キチッ」とした事を好む。乱雑さを嫌い、いい加減さを忌(いみ)て、投げ遣りさや、だらしなさを賤(いやし)む傾向が強い。ちゃんと整理して片付けたい性分なのである。いわゆるゴルフを始めるのに、技術よりもゴルフ・クラブやゴルフ・ウエアから入るタイプであって、やるぞと一旦決めたら、自身の腹を決める為にも先に形質から固めるのである。それが良いかどうかは分からないが、先にルールを取り決めて、それを遵守しようとするのは良いが、ルール自体を独断で決めて、それを「ゴリ押し」で皆に守らせようとするのは少し筋が違う。酉の生命には我見や我流を慎んで頂いて、我を削って他を生かす事を(氷が溶けて水になる事)、つまり「諦観」や「達観」の境地に辿り着いてもらわないと、地上に現れた形(無明の生命=不成仏のお化け)のままで終わってしまう。天界の法の番人であり、まるで裁判官の如き酉の生命だが、その完成年齢は満100歳である。実際、実年齢で満100歳ぐらいは生きてくれないと、この生命から執着心が薄れて、自らの形を解いて水に変化する事は無いだろう。

 

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